平成29年冬号(vol.44)

みやぎ会 鳳鳴大滝
鳳鳴大滝
みやぎ会の活動
平成28年ボランティア活動報告

みやぎ会では、東北地方整備局が行っている「ボランティア・サポート・プログラム」の認定を受け、国道48号の清掃活動を行っています。

活動は4〜11月の第4土曜日で、平成28年の活動は下記の日程で宮城総合支所駐車場に集合し、午前6時半から約1時間程度の作業を行いました。

(リンク先に実施した活動報告を掲載しています。)

ボランティア風景 
ボランティア風景

高橋 林平


干支では申年から酉年に移行し、私のような世捨て人にはあまり感激もなく越年しましたが皆様にはどのような気持ちで新年を迎えたでしょうか、

あらためて明けましておめでとうございます。

次々に澎湃ほうはいとして起こる関心事は多いのですが、昨年の私にとっての関心事の一つは東京都の知事選であり、二つにはアメリカの大統領選でありました。

加えて個人的には20年前に自分が創業した(株)パスクの今後の事であり、自分自身の健康の問題でありました。

東京都の知事選に関心があったのは、皆様にも気持ちの上では応援していたであろうと思われる元岩手県知事であった増田さんの立候補でありますが、増田さんが岩手県知事になる前のポストが建設省建設業課の建設業紛争調整官であったことです。

勤めていた時代も違いまた、増田さんはキャリアであり私のような雑者とは仕事の内容もまるで違うのですが、同じ課に勤めていたことのある人というそんな思いで増田さんには思い入りがあったのです。

ただ、私は増田さんにお会いしたこともなければ謦咳けいがいに接したこともありません。結果は残念ながら小池知事の誕生と言うことになったのですが、その後伏魔殿と言われる都庁の現状をマスコミの報道で知るにつけ、増田さんは東京都知事にならなかったほうが良かったのではないかと失礼ながら思えてなりません。

二つめのアメリカ大統領選においては、何だかんだ言って、結局「常識」が勝利するに違いない、だが現実は「非常識」が呵呵大笑したと週刊誌が報じたように、大方の予想に反し、トランプ次期大統領の誕生ということになりました。

あの爆弾発言を聞くにつれ、日本の立ち位置は今後どうなるでしょうか。安全保障の問題を嚆矢こうしとして、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)一つをとってもアメリカはこの協定から脱退すると発言しております。

ただ、このTPPにつては、政府の進めていることだからと深く考えることもなかったのですが、文芸春秋11月号の「47人の知事にTPP賛否を問う」という記事を読みますます判らなくなりました。この記事によると、47人の内賛成の知事は15人で反対は0で、どちらとも言えないが32知事であったことです。ちなみにわが宮城県知事はどちらとも言えないとの回答でありました。

世捨て人と言っているのだからどうでもいいのではないかと言われそうですが関心事ではあります。

個人的なことでは平成9年自宅を本社として立ち上げた(株)パスクのことですが、一般社団法人として衣替えした東北地域づくり協会からの事業譲渡を受け、再生パスクとして生まれ変わり、コンサルとしては中堅の会社として活躍を始めておりますので、20年前の冒険が報われた思いでおります。

社会的には何も残すことの出来なかった私ですが、パスクの創業者として多少の貢献は出来たのではないかと思っております。

自分の健康面では、昨年5月に脳梗塞を患い12日間入院を余儀なくされました。朝新聞受けから新聞を手にして部屋に戻り新聞を広げようとしたら右腕がだらりと下がりもう右半身が効かなくなっていたのです。

家内が掛かり付けの秋元医院に連絡したところ、広瀬通りの青葉脳神経内科を紹介され受診の結果、脳梗塞と診断され直ちに救急車で仙台市立病院に入院し、翌日から汗をかくほどのリハビリを受け後遺症もなくなり退院いたしましたがこれは処置が早かったたまものと思っております。

申年生まれの私は昨年7めぐりの干支を数え84才を過ぎましたので、とにかく酒が呑める状態を維持していきたいものだと思っております。

みやぎ会会員の皆様のご健勝を祈念しつつ、新年の挨拶にかえさせていただきます。

会員の広場

平成21年春号から『会員の広場』と言うコーナーを設けましたので、会員のあなた様の”常々思っていること”、”あなたの周りのあんな事、こんな事”等掲載をしていきたいと思いますので、是非ご愛読よろしくお願いします。

田子倉ダムと奥只見ダム

目次

1.只見川(平成28年春号(vol.41)掲載)

2.二つのダム(平成28年春号(vol.41)掲載)

3.田子倉ダム(平成28年夏号(vol.42)掲載)

4.奥只見ダム(平成28年秋号(vol.43)掲載)

5.只見線物語

6.おわりに

5.只見線物語

田子倉ダムへ行くには福島県会津若松からと新潟県小出からのルートがあります。田子倉ダムが只見町に存在するので、通常は会津若松から入ると思います。私はこの2地域を結ぶ只見線に乗車したいがために、新潟県の小出から入りました。

ここで只見線について解説をしておきたいと思います。只見線物語という図書や福島県が組織している「福島県JR只見線復興推進会議」会の資料等を参考にし、以下に述べます。

只見線は小出〜会津若松間約135kmを運行するJR線です。

大正15年に会津若松〜会津坂下間の開通を皮切りに、始まりましたが、小出〜会津若松間全線開通は昭和46年のことです。この路線を開通させるに当たってはかの田中角栄が存分の働きをしたことが知られています。只見川水資源開発を巡っては激しいかけひきを演じた両県ですが、両地方を結ぶ鉄道敷設は地域の悲願とも言うべきものだったのです。

日本列島改造論を掲げて登場した田中角栄は今で言うところの地方創生に向けて全国のインフラ整備を強力に進めました。新潟県側の地元からの要請に応じて只見線の期成同盟会長に就任しています。只見線全線開通に際しても、彼独特の論理を国会で演説し、予算を獲得することに貢献しました。地元には只見線、というよりは、上越新幹線の最大貢献者として銅像が浦佐駅に建立されています。小出に建てる計画が適当な場所がないということで新幹線駅の浦佐駅前に建立されたとのことです。

沿線を流れる只見川には10基のダムと水力発電所が建設され、電気は首都圏にも供給されています。一部の区間はかつて田子倉ダム建設輸送のための専用鉄道でした。国内有数の豪雪地帯を走り、車窓からは四季折々の絶景が見られる鉄道で多くの鉄道、写真愛好家や旅行者に愛されているそうです。

【 写真−14 代行バス 】
【 写真−14 代行バス 】
【 写真−13 只見驛 正面出入口 】
【 写真−13 只見驛  正面出入口

これだけの山間地を貫く鉄道とはいえ、利用者数が少ないこともあって、新潟県側は1日3往復程度の列車の運行状況です。福島県側はそれより多く、1時間1本程度の便数です。沿線住民の日常の足となって活躍しています。

平成23年7月の新潟・福島豪雨が会津地方を襲い、只見川筋でもかなりの洪水被害が発生しました。只見町から会津若松へ向かう路線のうち、只見〜会津川口間27.6kmが4つの橋梁等が深刻な被害を受け、現在不通となっており、バスにより代行運行されています。

地元や福島県では被災区間の早期復旧をJR側に訴えてはいますが、反応は芳しくなく、只見町タクシーの運転手さんの話では、やるともやらないとも言わず、何もしていない、そうです。この復旧費用は約85億円と試算されています。福島県や関係市町村は復旧費用の一部をJR東日本に対して支援することを決定しているのですが、JRは復旧する気をみせていません。

田子倉ダム建設時の工事用鉄道区間は会津川口〜田子倉(只見)間であり、地元はこの区間を会津若松からの延伸に利用しようという動きがありました。電源開発では当時の国鉄に売却処分しようとしましたが、国鉄側は旅客用鉄道にするためには設備投資が必要になるのでゼロ円で引渡をするのが当然と有償引取を渋っていたと言います。最後は政治決着で売却価格を大幅に下げて有償で移管され、改良工事を行って只見線として運行が始められました。こんな経緯もあり、国鉄にとっては元々筋悪の路線だったようです。

冷静に考えれば、全区間運行する便は1日3往復程度しかなく、このような赤字路線について復旧投資を行っても採算は合わないでしょう。それでなくとも、東日本大震災でJR東日本は、新幹線はじめ相当の被害を受けています。太平洋沿岸沿いの路線も仙石線が今年ようやく全線復旧による開通がなされたばかりです。三陸沿岸沿いの路線はいまだ復旧せず、鉄道区間をBRT等に切り替えられるなどの措置がとられています。仙石線も全線開通したとは言え、震災前の9割程度しか乗客数が回復せず、高速バスなどに通勤通学のお客がとられているようです。

そのような厳しい対応に、全線早期復旧を目指して、ある組織ができています。「全線復旧をめざして 只見線応援団」と言う名の組織で、事務局を訊ねていくと福島県庁の生活環境部生活交通課に辿り着きます。私も入会し、ささやかな応援活動としてこの拙文を書いています。

6.おわりに

最後まで拙文にお付き合いいただきありがとうございます。

戦後、日本の復興を目途に、エネルギー開発(当時の主力は水力エネルギーでしたが、)にまつわる話は、多様な視点から描かれ、小説になったり、壮大な土木技術作品が創出されたり、いろいろな成果を生み出しています。それらの土木作品は50数年を経た今日も力強く働いています。田子倉ダム、奥只見ダムは現在でも日本有数の大ダムであり、発電所も日本で1,2を争う規模の水力発電所です。文学作品や経済論文、只見線関連図書、ダム技術報告などの資料を読みながら当時の事情を知り、作品であるダムや鉄道を現地で見聞してきました。

険しい自然、機械力、克服、日本経済社会の発展、様々な人間模様・・・当時に思いを馳せて、ひとしきり感慨に耽る時間でした。


(参考文献)
5.只見線物語
只見線物語 磯部定治 恒文社
 

記 島田 昭一

「アジアの小さな旅」の想い出

アジアの小さな旅」は、旅行会社の主催するツアーに参加してアジアの国々を旅行した気の合った数人の仲間による旅行をする際の名称で、平成14(2002)年にスタートして14回を数え、仲間の数も訪れる国への興味や都合のつく人の構成で4人〜9人と賑やかです。最初からこの名前で始めたわけではないのでしたが回を重ねるほどにアンケート(旅行先・時期・予算など)や連絡する際の名称として定着しました。

平成14(2002)年11月20日〜24日中国(昆明・桂林・漓江下り)5日間の旅がスタートで、団長:森屋昌也、副団長:佐藤哲郎、一戸康弘、佐々木洋治の4人がメンバーでした。10回まで団長、副団長は変わらずで団員が変動しました。団長、副団長以外の団員は、一戸康弘、氏家康典、奥山忠悦、片桐眞次、古村利定、斎藤賢一、佐々木洋治、信太武氏、高橋秀夫、永澤新作、水戸部廣一、水上忠夫、森井希一の各氏です。森屋さんが80歳で退団?して佐藤哲郎さんが昇格して現在に至っています。

これまでに訪れた国は、中国8回(昆明〜桂林・無錫〜杭州2回・西安〜北京・長春〜大連・青島〜泰山・九寨溝〜楽山・山峡)、カンボジア、シンガポール、ベトナム、インド、ミャンマー、台湾などです。なお、「韓国」、「フィリピン」が含まれていないのは既に団員の方々が訪れていてアンケートで候補地に挙がらなかったからで興味がないわけではありません。また、中国(敦煌、チベットなど)、トルコなどは候補に挙がったのですが現地安全などの状況で行けませんでした。

旅行日数も延べ77日(5〜7日/回)で、費用は合計2百万円(8〜27万円/回)を超しています。この費用の中には「海外保険」の代金約8千円/回が含まれていますし、保険のお世話になったのは第14回(平成28年)だけでしたが大変貴重なものとなりました。

旅行会社は「タビックスジャパン」、「クラブツーリズム」、「ホリディーツアー」、「ワールドパック」、「読売旅行」などで近畿日本ツーリスト仙台団体営業所を窓口にお世話になりました。

アジアの小さな旅」の特徴は、一日の工程が終了しホテルに帰ると一斉に風呂に入りグラスを持ち寄り持ち回りで2名/部屋での全員参加する副団長発案の反省会です。反省会のアルコールは空港の免税店で購入したウィスキーと現地調達のお酒(中国ですと紹興酒など)と日本から持ち込みのツマミ(現地のツマミは美味しくありません)を頂きながら、一日の楽しかったこと、ドジなことなどを肴に話に花が咲くことです。2時間程度の時間ですが翌朝の早い出発やホテル着が遅い場合は短縮となりますが思い出となるひと時です。現地でのアルコールの購入はホテルの周辺で一苦労しますが何とかなるものですよ。

旅行の記録は、一回毎に写真を含めA4版4ページ程度にまとめています。10回までは「アジアの小さな旅(50ページ)」として手作り印刷をしています。平成29年春号では、第一回「昆明・桂林・漓江下り5日間」を紹介させて頂きます。

記 佐々木 洋治

おやじ、

ある月刊誌に毎月載っている記事で、おやじこの「・・・」はおやじの上に振っていますおふくろこの「・・・・」はおふくろの上に振っていますというタイトルがある。文化人、評論家および芸能人等が投稿しているものである。

それぞれの記述者が自分の親父またはお袋との日常生活のこと、あるいは思い出等を語っているのですが、概して言えることは親父とはあまり会話がなく、お袋からはいろいろと言われている(または言われた)という。

しかしながら、親父が他界後思い出してみると、心に残っていることがいくつかあるという方が多かった。

この記事を読む度に、自分のことに置き換えてみるに、自分も親父とはほとんど会話はなかった。もともと口数の少ない親父でしたから、生前実家に帰っても、「よう来たな」「元気だったか」この程度の会話、帰るときも「もう帰るか」「また来いや」ぐらいのもの。今思うともう少し会話があっても良かったのではないかと。

自分も人の親になってみて、親というものはいつも子供のことを思い、心配しているか、これは人の親は誰でも皆同じだと思います。

俗に言う”親孝行したいときには親はなし”と、生前一つとして親孝行しなかった自分、親はいつでも側にいるものだと思い込み、親の気持ちを汲むことができなかった。今では時遅しの反省ばかりです。

口数のない親父でしたが、いつも「元気でな」この言葉だけが、今でもなぜか心に残っている。親父としては、子供に対する最高の愛情だったと思います。

他界した両親ですが、強いていうならば、職に就き、家庭を持ったこのことが唯一親孝行だと自分に言い聞かせ、おやじこの「・・・」はおやじの上に振っていますおふくろこの「・・・・」はおふくろの上に振っていますにこれで勘弁してくれと思うこの頃である。

記 熊谷 信弘

町内会1年生

愛子駅から作並方向へ徒歩20分の旧電波高専の近くに川内から移転して4年になり、1月に65才になり仕事も石巻市で担当した5階建ての復興公営住宅も5月に完成し、一区切りつくので、仕事のみの毎日から地域での触れ合いの時間を作ろうと思い始めた時に、町内会に誘われました。

私の地域の町内会は二岩町内会で約1,300世帯の大変大きな町内会です。

4月から防犯防災部の役員をするようになりました。

最初の行事は8月13日の夏祭りでした。カラオケと盆踊りの舞台の周囲に焼き鳥、焼きそば、かき氷などの店を出して大賑わいの夏祭りで300人以上の方が参加されました。

私は、焼き鳥を担当しましたが、炭火の起こし方、串に焼き鳥肉の付け方、焼き加減の見方をなどベテラン友人の手取り足取りの教えで、8名の班長さんと2,000本の焼き鳥を作りました。自分達で焼いた焼き鳥を皆さんが喜んで買って食べてくれました。

食べている人たちの姿に、とっても感激して嬉しかったです。ビックリです。

大賑わいの盆踊りも終わり、後片付けになりましたが、舞台の鉄パイプ足場の解体は素人には無理と思ったら、大工をやっている友人が工具を使いこなして解体を始めました。私も一緒に教わり解体しました。照明の解体はと思ったら、自営の電気工事をやっている副会長がプロの技で解体しました。店のテントも皆で解体しました。そして解体した鉄パイプ、テントなどの倉庫への収納も来年の取り出しも考えての収納位置へテキパキでした。

次の行事は敬老会でした。9月17日の午後から夕方まで設営の準備を行い、18日の朝9時から雨の中テント張りして受付の準備をし、その後二人で下足担当しました、事前に印刷準備した下足番号を下足袋に張って準備して、来られたら同じ印刷した下足番号を渡して、同じ下足番号の下足袋に下足を入れて下駄箱に置きます、帰りには来た時の下足番号を受け取り、同じ下足番号の下足袋を下駄箱から取り出し、下足袋から下足を取り出して玄関に並べてから、玄関で下足を履いて貰います。参加者は114名ですから、混み合ってきて下足のやりくりがスムーズにいかなくなってきて大変になったら、周囲の役員の方が手伝ってくれ、スムーズに無事故で終了できました。役員の皆さんが日頃から、仲良く、団結している事がすごく実感できて嬉しくなりました。

敬老会は、11時から敬老会員の方の日本舞踊で始まり、民謡で盛り上がり、カラオケが始まると、大きな拍手喝采で盛り上がり会場全体が興奮の渦になりました。カラオケの最後は75才で一緒に役員をされながら途中から敬老会の席に着いた方の上手な民謡でした。ビックリの連続で役員をしながらの初めての敬老会での日本舞踊、民謡、カラオケの素晴らしさに私も興奮してたくさんの写真を撮りに撮りまくってしまいました。13時半に終了して笑顔一杯で帰る皆さんを、慌ただしく下足の担当をしながら見送りました。そして慌ただしく昼食を取り、テーブルと食器などの後片付けと設営の撤去を役員全員で汗まみれの肉体労働でした。全て終了した役員の皆さんのホットした笑顔に敬老会の皆さんの興奮と笑顔が重なってしまいました。

25日の日曜日には班長さん対象の防災研修会があり、災害時の自助、公助、共助について勉強しました。私も防災部担当役員として住宅耐震診断、耐震改修工事の仙台市からの補助金制度について説明させていただきました。会場設営も行いました。

町内会役員1年生として夏祭りと敬老会、防災研修会の役員を初体験させていただいて、地域における親睦とコミュニケーション、連携の推進に果たす町内会の役割の大きさと役員の方の大変さと喜びと充実感を実感することができました。

記 菊池 豊三

トピックス

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