平成29年春号(vol.45)

みやぎ会 鳳鳴大滝
鳳鳴大滝
みやぎ会の活動
平成29年ボランティア活動予定

みやぎ会では、東北地方整備局が行っている「ボランティア・サポート・プログラム」の認定を受け、国道48号の清掃活動を行っています。

活動は4〜11月の第4土曜日に、平成29年の活動は下記の日程で宮城総合支所駐車場に集合し、午前6時半から約1時間程度の作業を行います。

  • 平成 29年 4月 22日(土)
  • 平成 29年 5月 27日(土)
  • 平成 29年 6月 24日(土)
  • 平成 29年 7月 22日(土)
  • 平成 29年 8月 実施日未定
  • 平成 29年 9月 23日(土)
  • 平成 29年10月 29日(土)
  • 平成 29年11月 25日(土)
ボランティア風景 
ボランティア風景

会員の広場

平成21年春号から『会員の広場』と言うコーナーを設けましたので、会員のあなた様の”常々思っていること”、”あなたの周りのあんな事、こんな事”等掲載をしていきたいと思いますので、是非ご愛読よろしくお願いします。

小牧ダム、御母衣ダム〜庄川水系〜

目次

1.はじめに

2.庄川水系のダム

3.小牧ダム(平成29年夏号(vol.46)掲載)

4.御母衣ダム(平成29年秋号(vol.47)掲載)

5.おわりに(平成29年秋号(vol.47)掲載)

1.はじめに

作家の曾野綾子氏はアフリカや中東など海外渡航の経験などから、民主主義を根づかせるための必要条件として、電気を使えるようにすることをあげています。生活インフラを整え、生活の安定・安心を確保することが何より必要なことだということです。経済産業活動の原動力としても電力エネルギーは不可欠です。かつての日本、特に戦後の混乱期から復興し、高度成長期へと発展する時代に水力発電開発が全国各地で進められました。象徴的な存在が黒部川であり、只見川や庄川でしょう。

庄川筋には五箇山や白川郷など世界遺産に登録された合掌集落が点在しています。白川郷とは近代までは白川村と荘川村を合わせた地域を指していましたが、近代に入り白川村のみを指すようになったそうです。水力発電所、ダム群と世界遺産の集落群が織りなす景観は、歴史的山村社会の遺産と現代の産業遺産が同居する、微妙なコントラストを醸し出しています。そのような庄川流域にある小牧ダムや御母衣ダムを昨年(2016年)の7月に訪れました。

2.庄川水系のダム

庄川は、上流域が岐阜県高山市、下流域が富山県南砺市、射水市となっている一級河川です。流域面積は約1,200km2であり、東北地方でいえば鳴瀬川ほどの河川に相当します。河床勾配が下流部で約1/200、上・中流部では約1/30〜1/180 であり、我国屈指の急流河川となっています。図ー1に流域図を示し、富山県下を流れる主要河川の諸元を表−1に示します。

【 図−1 庄川流域図(国交省HP資料を加工) 】
【 図−1 庄川流域図(国交省HP資料を加工) 】
ダム小牧ダム御母衣ダム
型式重力式コンクリートダム傾斜土質遮水壁型ロックフィルダム
堤高79.2m131m
堤頂長300.8m405m
堤体積28.9万立法メートル795万立方メートル
総貯水容量3,796万立法メートル37,000万立方メートル
有効貯水容量1,886万立法メートル33,000万立方メートル
流域面積1,100平方キロメートル442.8平方キロメートル
湛水面積145ha880ha

【 表−1 小牧ダム・御母衣ダム諸元 】

庄川には昭和5年に完成した小牧ダム・発電所をはじめとする発電目的のダムがシリーズで多く建設されています。主なダムとしては小牧ダム(H=79.2m)、祖山ダム(73.2m)、小原ダム(52m)、成出ダム(53.2m)、御母衣ダム(131m)などがあり、小牧ダムと御母衣ダムがよく知られています。小牧ダムは下流の富山県、御母衣ダムは上流の岐阜県に位置します。御母衣ダムは電源開発が建設し、管理を行っていますが、下流のダム群は関西電力が管理しています。発生電力は関西電力20ヶ所で744,900kw、電源開発3ヶ所で294,000kw合わせて1,039,000kwとなっており、黒部川の12ヶ所約90万kwを凌駕しています。

水力発電開発の時代、1950年代から60年代にかけて、ダム建設技術は顕著な進歩がありました。少し資料は古いのですが、高橋裕によるダム堤防の歴史的変遷図(土木学会誌1985年1月号P16)には、ダムタイプ別にダム高の変遷過程がまとめられています。コンクリート重力式ダムでは1930年頃大井ダムH=53mから小牧ダムH=79mへ、ロックフィルダムでは1960年頃石淵ダムH=53mから御母衣ダムH=131mへとダム規模が大きく飛躍しました。アーチダムでは1954年完成の三成ダム(H=42m)が日本の嚆矢と言われており(実は上椎葉ダム(H=110m)が先に着工していたのですが、規模が大きいので完成は1956年になったということです。)、その後、高さ日本一の黒部ダム(H=186m)が1963年に完成しています。

ダム技術の歴史を遡ってみると、小牧・御母衣の両ダムは歴史に名を残し、ダム技術史上画期を築いたことがわかります。

小牧ダムの建設事業には、ダムの技術的側面だけでなく、様々な画期、一大転機が見いだされます。

一つは林業との関係です。ダム事業者である水力発電側と庄川の「流木権」を主張する飛州木材側との間で、歴史的な事件として知られる「庄川流木争議」が起こっています。

元来、庄川は上流飛騨の木材を下流へ運送する木材流送の場として使われており、その仕事を生業としている飛州木材にとってはダム建設により木材流送ができなくなることは死活問題となります。このため、富山県は木材流送を阻害するダム建設に対して、水利権許可の際に木材の運搬施設の設置を付帯条件として付けました。しかし、飛州木材側は納得せず、工事禁止の仮処分申請など法廷闘争に持ち込んだのですが、結局、敗訴してしまいます。小牧ダムと上流の祖山ダム、両ダム間の木材輸送は、電力会社が設置した運材施設を利用することになり、小牧ダムの左岸側にはその施設の一部が今でも残っています。

小牧ダム、祖山ダムは昭和5年に完成し、ダム完成後も流木争議の裁判が続いていましたが、昭和8年内務省の斡旋により和議が成立しました。その後、木材輸送はダム建設時の工事用道路等を利用した陸路に転換することになったのです。

この流木争議は当時としては大きな話題になっていたらしく、高見順や三島由紀夫といった作家が作品を残しています。高見順の「流木」、三島由紀夫の「山の魂」という小説です。近年では平成14年に山田和が小説「爆流」を発表しています。

高見順の「流木」は、小説作りに行き詰まっている状況を打開するために流木争議を題材に小説を書いてみないかと編集者から誘われて、現地をルポした小品です。高見順が現地へ行ったのは小牧ダムがほぼ完成した頃のようで、その印象を次のように記しています。

「川を横断して築かれた高さ260フィート、幅千余フィートの大堰堤はさながら城壁のようであった。山の中からまだ山の空気をつけて出たばかりの私は、自然と抗する人力の偉大さに打たれ、そしてこうして都会地に近づくと、とみに暑さの加わった太陽の直射にうたれつつ、呆然と見上げるのであった。初めて見るダムの威容である。」

小牧ダムは建設当時東洋一のダムという触れ込みでしたので、初めて見る人にとっては大きな城壁に見えたことでしょう。素直に人力の偉大さに感動しています。(小説は)簡単には書けそうもないが、今後努力したいという手紙を編集者宛にしたためています。結果としてこの小品が作品になったようです。

当時、このような大きなダムを造って本当に大丈夫か、安全のなのかと地域の人々が疑っていたようです。

三島由紀夫の「山の魂」は文庫本17ページの短編小説です。

材木屋を営む主人公が電力会社との流木訴訟に敗れ、世間の裏切りにもあい、莫大な借金を負ってしまいます。山の魂に背中を押されるように純粋な気持ちで闘ったのにこのような結果になったことにすっかり傷心してしまいます。しかし、これが世間への復讐心に変わってしまい、自分を欺いた債権者と組んで、次々に、ダム建設の現場で補償金をつり上げ、一儲けを重ねていくことになります。結局のところ、主人公には儲けた金は残らず、ほとんど債権者の資産となり、債権者は北陸きっての富豪になった、という内容です。

三島由紀夫は奥只見ダムを取材して「沈める滝」著しています。ダムにも関心があるようですが、この小牧ダムの流木争議は昭和の初期の頃の事件であり、三島由紀夫の幼少期の話なので、どのようにして知ったのかわかりませんが、ダムを取材している時に知り得たものでしょうか。

山田和の小説「爆流」は単行本410ページの長編作品です。本の帯には『ダムの底に沈んだ愛する人の住処 昭和の初めに起きた 電力VS.林業の大戦争 太古の森と共に生きた杣夫たちは知力を尽くして電力会社の横暴と闘った』と記され、発刊当時長野県知事だった田中康夫と作家の椎名誠両氏推薦とあります。いわば反ダム小説といえます。

小牧ダムの流木騒動などが終わり、30年ほど過ぎた頃、主人公が小牧ダムの上流に建設された御母衣ダムを見に行きます。その時のダムの印象を主人公に次のように述べさせています。

「まもなく正面に庄川を塞いでいる巨大なボタ山のようなものが見えてきた。御母衣ダムだった。高さ131m、長さ405m、貯水量3億3千万立方m、年間発電量5億1千万kwの巨大なロックフィルダムである。

小牧、祖山ダムを遙かに凌ぐ、庄川では築造十番目のダムだ。このほかに庄川にはさらに十あまりダムの計画が決まっている。将来には三十にも四十にもなりそうな勢いである。」

二つ目はダムの補償問題です。

小牧ダムの建設に当たり、流木輸送の問題だけではなく、灌漑用水や漁業補償の問題も発生しており、機能補償施設としてエレベータ式魚道や流木運搬設備が設置されました。流木設備は祖山ダムと小牧ダムの間の運搬用なのですが、機能が不十分でした。結局、電力会社側が巨額の補償金を負担して終結させています。補償の一部には、「百万円道路」と呼ばれた道路も開設され、上流地域と下流地域の物流や人の移動が活発になり、山村地方も大きく変貌していくことになります。

この事例からダムの建設に際して、木材の流送を中止して鉄道あるいは道路を建設することが補償事業として行われるようになりました。また、漁業補償の面でも魚道の設置やダム建設事業に伴う漁業補償の先例となりました。

小牧ダムの建設による移転は旅館が1軒ほどですが、御母衣ダムでは301世帯1,364人だと言われます。御母衣ダム地点は白川村、水没地の大半は荘川村であり、ダム完成後の固定資産税は白川村に支払われることになります。水没地域は山村とはいうものの、岐阜県内では穀倉地帯となっており、木材運搬業なども行い豊かな土地柄でした。このような事情から両村のダム建設への対応は歩調が合わず、荘川村の住民を中心に始まったダム建設反対運動は7年半にわたり激しく行われました。反対闘争の主役は「死守会」でした。住民は現場事務所に不信感を抱いていましたが、電源開発碕総裁や藤井副総裁等の幹部との対話により信頼感が醸成され、「幸福の覚書」の締結によって、反対運動は終息することになります。

御母衣ダム建設の時代は全国的な補償基準が定められていない時代であり、事業者によって相当程度バラツキがありました。発電ダムについては「電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱」(1953.4.14閣議了解)が定められており、慰謝料に関するに内容も明記されていました。このため、手厚い補償も可能だったようです。ところが、公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱(1962/06/29閣議了解)によってこの点が否定されてしまいました(華山謙 補償の理論と現実 P241〜 勁草書房 1969年)。

三つ目は水利の面です。庄川は歴史的にみれば小矢部川から分離され、現在の姿になったのは寛永年間(1624年〜)以降のことと言われています。下流域は扇状地上の水田面積が拡がり、しばしば流末部で旱害が起こっており、江戸時代より利水の安定的確保、関係団体等の調整が地域の懸案となっていたのです。12に及ぶ用水の間で水争いが常習化していました。

この用水問題の解決には合口による水利調整が最適であり、合理的方式と考えられてきました。合口事業の実現は小牧ダム事業が契機となりましたが、難しい水利調整問題でした(新沢嘉芽統 河川水利調整論P136〜 1962年 岩波書店)。合口事業として高さ18.5mの庄川合口ダムが建設され、取水口も統合されています。この合口ダムは小牧ダム発電所の逆調整池にもなっており、中野発電所により発電を行っています(最大出力6,700kw)。

御母衣ダムは高さ131mあり、日本でも屈指の規模を有するロックフィルダムです。只見川にある奥只見ダム、田子倉ダムとともに電源開発が建設し、当時の日本を代表する大ダムの一つです。ダムの建設に当たってはダム建設反対闘争も起こりましたが、水没予定地から移植された2本の巨木桜の木、荘川桜の逸話が有名です。

御母衣ダムは建設反対運動が盛んに行われたのですが、補償交渉は時の電源開発総裁碕の人徳により解決に向かったように思えます。妥結調印式にはすでに総裁の座を退いていたにも関わらず、水没住民側から招かれたほどです。その時に、運命の桜との出会いがありました。早速、桜博士として有名だった笹部新太郎を訪ねて、移植作業を依頼します。その熱意に動かされ、笹部は常識的には不可能と思われていた桜の古木の移植作業を手伝うことを承知しました。移植作業を行う植木職人はこれも当時有名であった豊橋市の丹羽政光に依頼します。移植方法について学者と棟梁が激論を交わしながら行われています。秋に移植された桜は翌年花を咲かせ、関係者を安堵させました。それが昭和40年頃の話です。

以来、50年が過ぎ、桜は新しく枝も伸ばして、貯水池に沈んだ寺にあった往時の姿に蘇ってきているのではないでしょうか。中島みゆきの地上の星のメロディが聞こえてくるようです。

桜博士の笹部新太郎の著作に「櫻男行状」と「続櫻男行状」があり、後者に「御母衣の桜」という作品があります。碕に巨木桜の移植について依頼を受け、実施に至る顛末が書かれています。初対面の席で相談を受け、間髪入れず、即座の依頼となったのですが、碕の気迫に押されて引き受けてしまったと述べています。

植木職人丹羽政光、ダム施工者の間組らとの共同による移植プロジェクトが始まりました。桜を見てからの判断ですが、土質とアズマヒガンという桜の移植という2点から考えて移植の成功に希望を持っていたようです。移植される桜は枝を切り落としても42tと38tの重量があるのに対して、間組が準備したクレーンは15t吊り2台でした。移植木をクレーンで吊り上げ、鋼鉄製のソリに乗せて丸太棒等をコロにして、坂道を1,000m程引き上げる作業です。移植作業は昭和35年11月15日から12月24日までの約40日間に行われました。

地元の人々の反応は冷ややかで沈黙と嘲罵だけだったといいます。それだけでなく、植物関係の研究者や技術者の人からも非難を受ける始末であり、風当たりは相当強いものがありました。

【  写真−1 碕達之助,写真−2 水没記念碑除幕式,写真−3 荘川桜  】
【 写真−1 碕達之助,
 写真−2 水没記念碑除幕式,
 写真−3 荘川桜 】

移植後、桜の活着に自信を持ちながらも、翌年の春が待ち遠しいものでした。やがて、御母衣にも春が訪れ、極めて僅かながら花が咲きました。だが、大事なのは花の後、夏から秋にかけての灌水などの世話であり、このことを何度となく現地に指示していました。秋になったら落ち葉はさっさと落ちなくては健全な活着とはいえないと気をもみながら移植後の1年が過ぎました。移植2年目の春も枝も花も数を増やしました。桜の様子を見た地元の人々も心を動かされ、水底に沈んだ故郷から生き残った2本の桜の幹に手を撫でながら声をあげて泣いたそうです。

昭和37年6月12日に水没記念碑の除幕式が行われました。除幕式に参列した笹川新太郎はこの式典に大いに感動した様子が直截に記されています。前総裁の碕達之助も出席し、歌を寄せています。後任の藤井総裁は2本の桜を「荘川桜」と命名しました。

  ふるさとは湖底となりぬ移しこし

            この老桜咲けとこしえに

これは歌碑として桜の移植場所に建立されています。

笹部は昭和40年9月上旬、しばらくぶりに御母衣の桜の経過を見に行きました。皆が申し合わせたように巨木の肌を撫でて桜の成育を喜んでいたそうです。しかし、人間の寿命は短い。移植の3年後には碕達之助が病死、植木職人丹羽政光も病死、息子の丹羽克美も交通事故により急逝と相次いで関係者が亡くなり、桜の行く末を案じました。

ここで、作品は終わるのですが、現在は電源開発(株)が桜の管理を続けています。管理センター内の展示室の一角では丁度荘川桜の写真展が開催されていました。桜の満開の姿は圧巻の光景です。笹部新太郎の危惧は杞憂に終わっているようです。

碕達之助について榛葉英治の伝記本「夕日に立つ」があり、荘川桜のことが「16章 湖畔に咲く桜に」にまとめられています。秀でた経済人として、戦前は満州で活躍し、戦後帰国してからは政治家としても才能を発揮しました。引退後、当時、発足したばかりの電源開発初代総裁に推挙され就任しています。高碕氏の人間性にも敬服しますが、御母衣ダムはじめこの時期のダム建設の機械化施工を推し進めた人だという点にも感服します。政治家としての起ち居振る舞いも見事なものです。

御母衣ダムでは事業執行に際して様々な事件が捲き起こったようですが、人格者がトップの座に座り、桜の美談を遺しています。

御母衣ダムも小牧ダムもそうですが、ダム事業の資金を世界開発銀行から支援を受け、ダム建設でもアメリカなど外国の技術支援を受けたダムです。しかも、建設事業をめぐる地域社会との軋轢を経て、ダム建設による水力発電、産業経済の発展に貢献するという直接的な効果だけでなく、人にも地域にもダム建設技術面においても大きな影響を及ぼしました。

日本経済が飛躍的に発展を遂げた時代に原動力の一つとなり、その礎にもなり、今日も活躍を続けている庄川のダム群です。ダム技術者にも土木技術者にとっても知っておくべき貴重な土木史だと思います。

<3.小牧ダム(平成29年夏号(vol.46)掲載)へ続く>


(参考文献)
2.庄川水系のダム
・小牧ダム−Wikipedia
・御母衣ダム−Wikipedia
・関西電力ホームページ  北陸支社の概要
・古賀邦雄 ダムの書誌あれこれ(33)〜庄川・常願寺川・矢部川のダム(庄川合口、小牧、御母衣、有峰、刀利)
  http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=305
・荘川桜物語 Our Sprit  J−POWERパンフレット
・安達實ほか 庄川小牧ダム建設と流木問題 土木史研究第18号1998年5月
・高見順 流木 高見順全集第五巻 講談社版
・三島由紀夫 山の魂 新潮文庫「鍵のかかった部屋」所収
・山田和 爆流 文藝春秋 2002年2月
・笹部新太郎 続櫻男行状 御母衣の桜 平成3年2月 双流社
・榛葉英治 夕日に立つ 16章湖畔に咲く桜に 日本経済新聞社 昭和50年12月
・プロジェクト]15 技術者魂よ永遠なれ  桜ロード巨木輸送作戦 NHK 出版
・小寺廉吉編 山村民とその居住地 [ふるさと]の問題
  −御母衣ダム反対運動と荘川桜の物語及び活断層の上にある御母衣ダムの問題−  1986年12月
・浜本篤志編 御母衣ダムと荘白川地方の50年  2011年6月 まつお出版
・浜本篤志編 発電ダムが建設された時代 聞き書き御母衣ダムの記憶
                                   新泉社 2014年5月
 

記 島田 昭一

昆明・桂林・漓江下り5日間

NHKテレビで紹介されて人気の高まった「昆明(こんめい:クンミン)・桂林(けいりん:コイリン)・漓江下り(りこうくだり:シアリーチアン)」に行きました。仙台国際空港発着が魅力でもありましたので参加者は仙台単身赴任中の1人を含め4人です。この4人が中心となって「アジアの小さな旅」が10年間も続くことになりました。団長は森屋昌也、副団長が佐藤哲郎、団員が一戸康弘・佐々木洋治です。ほとんどの企画は副団長が探してきます。訪問先が多くなりますと仙台国際空港発着ばかりではなくなり新東京国際空港(成田)まで新幹線や飛行機乗り継ぎで行くことにもなりました。この10年間の記録は「アジアの小さな旅の記録」として一覧表にまとめました。コース・参加者・費用などを整理していますのでそちらをご覧下さい。

アジアの小さな旅第1回は、タビックス・ジャパン(TABIXJAPAN)の企画・実施する「昆明・桂林・漓江下り」の旅で総勢15名、旅行期間は2002(平成14)年11月20日(水)〜24日(日)5日間で、参加者は団長:森屋昌也、副団長:佐藤哲郎、一戸康弘、佐々木洋治の4名です。添乗員の大崎裕子さんは建設省(現国土交通省)に縁のある方でした。

第一日目 (11月20日 水曜日)  ★ 仙台を出発し香港経由で桂林に飛びました。

仙台国際空港9:00出発(香港ドラゴン航空KA321便)ですから2時間前の7:00に集合です。佐々木自宅(仙台市青葉区みやぎ台)5:30発で一戸下宿前(仙台市青葉区八幡町)〜佐藤自宅(仙台市若林区土樋)〜森屋自宅(名取市名取が丘)経由の自家用車での集合となります。このコースのパターンはメンバーが増えて多少の変更もありましたが続きました。

初めての中国旅行でしたから持ち物・現地の気候・お金などに気配りをしての出発でした。香港空港での乗り継ぎではビールの値段の高さに目を丸くする場面や厳重な警固をされて移動する朱首相を見かけるなどして桂林兩江空港(香港ドラゴン航空KA700便)には19:00に着き、ホテルでの遅い夕食を21:30に終わり、就寝は23:30でした。夕食後の2時間はホテルの1室(主に佐藤・佐々木の部屋ですが人数が多いときは輪番制)に集まり「反省会」と称する今日一日の話題を酒の肴としての飲み会です。この「反省会」は小さな旅の財産ともなる名物でもありました。

空港に出迎えてくれたのは李青豊さん(海南島出身短大3年生)で夕食の案内をしホテルまで送ってくれました。夕食は桂林を代表する金木犀(きんもくせい)を使った「桂花料理」と名物ビーフンでした。ビーフンは米の粉をこね麺状にこしらえたもので牛肉や揚げ大豆と一緒に炒めスープを加えて食べるのが桂林流だそうです。ビールは18.5元/本で喉を潤しました。もっともこのビールの値段は日本人団体客用で高く後年は20〜30元/本になりました。ホテルは「桂林賓館(GUILN BRAVO HOTEL)」でした。

第二日目 (11月21日 木曜日)  ★ 桂林漓江下りと桂林市内観光をして昆明に入りました。

モーニングコール6:00、荷物の引き取り(部屋の前廊下に出す)6:30、その後バイキングの朝食6:30〜7:20、出発は7:30と慌ただしいのは、漓江下りの乗船地竹江8:30着、乗船が9:00だからです。漓江下りは桂林観光のハイライトで陽朔までの約45kmを半日かけて遊覧船で下り、奇怪な峰々の連なり、昔ながらの小舟で漁をする人々、岸辺から手を振る子供達、山水画の景色をゆったりとした美しい流れに乗って心ゆくまで堪能するのがよいのですが、我々のコースでは10:30途中下船、桂林兩江空港着15:15、16:00離陸、中国雲南航空(3Q4350便)昆明空港17:40着陸、夕食・「雲南料理」19:00〜20:00と言う強行スケジュールでした。

現地の案内は黄玉弟(コウギョクテイ)さん36才の方で、両替10,000円(650元)をバスの中でしてくれ、中国広州地方の人口・地形・経済・民俗などについてこまごまと説明をしてくれました。雲南省はベトナムに近いので暖かい地方ですが11月も末ですから上着は必要で、船上からの眺めはすばらしく桂林の風景は20元札の裏側に印刷されている所です。石灰岩質を帯びた峰林及び鍾乳石、石筍、石柱等カルスト地形で九十九曲り、奇峰林立が眺められました。

桂林とは、桂樹(金木犀)が多いことから名付けられているそうで、東南アジアへの要衛でありましたが長安から左遷された人々の街でもあったそうです。河から眺める景色もすばらしいのですが、下船しての市内観光では秋に金木犀の香り漂う「畳彩山(じょうさいさん:ティエツァイシャン)」、全長2qの息をのむ美しさの鍾乳洞「蘆笛岩(ろてきがん:ルーティーイェン)」、天帝の怒りに触れ殺された象が石になったと言う悲しい伝説の「像鼻山(ぞうびざん:シアンビーシャン)」も趣がありました。

市内観光でバスを降りると「シェンエン・シェンエン」と言いながらお土産物を売る人々が群がります。「シエンエン」とは「千円」のことで日本の千円札1枚で品物を買ってくれということです。ちなみに1万円札を出して買うと言いますとダメのゼスチャーで売ってくれませんでした(笑い)。また、200元などと言いながら日本語の観光説明書を売る人もいます。バスを降りてすぐ買うのはダメで観光地を見てバスに戻る時買うと半値以下になるか品物の数が倍以上になります。また、値段は5〜10倍となっていますから値切りの交渉が必要です。もっともこのことを知ったのも何回かの学習の結果です。言葉は話せませんので身振り手振りのゼスチャーでの交渉ですが通じるものです。

空港へ通じる高速道路と称する道路の道端ではザボン(3〜4元/個)を山積みにして売っていました。路側は歩道代わりにもなっているといい何とものどかな風景が見られました。中国石化集団・中国石油とはガソリンスタンドのことだそうです。

昆明空港に着陸し簡単な雲南料理とビールを飲み、ホテル(昆明邦克飯店:BANK HOTEL KUNMING)に帰り「反省会」をして就寝しました。風邪で便秘の一戸さんには水道水が効果てきめんだったとか?

第三日目 (11月22日 金曜日)  ★ 石林を往復し昆明市内観光、夕食後民族舞踊ショーを見ました。

ホテルを8:30出発して昆明南東約120qはなれた「石林(せきりん:シーリン)」にバスで着きました。石林は高さ20〜30mの石灰岩の大石柱が270平方kmのカルスト台地に文字どおり林立する奇観です。2億7千年前には海底でしたが地殻変動により陸地となり、雨や地下水の浸食作用により林立する姿になったのだそうです。

昆明の交通事情などを紹介しましょう。路線バスは距離に関係なく1元(16円)、タクシー市内のみ8元、郊外はバイクタクシーと三輪車だそうです。観光バスも1元、自動車は「汽車」、鉄道は「火車」と言います。自動車は25,000(35万円)〜200,000元(300万円)するそうで、月給が1,200元(18,000円)ですから高嶺の花だそうです。自動車のプレートの色は、黄色:バス・トラック・農業用車、青色:普通車、白色:警察、青色:大使館です。

石林で昼食後、花の都と言われる昆明に戻り「花の市場」を見学して、夕食は雲南名物「過橋米線」です。この料理は雌鶏からダシをとったあついスープに肉・魚・野菜・米線(米で作った太い麺)を入れて食べるものでした。ビールを飲み終わり民族舞踏ショーを見てホテル(昆明邦克飯店)に帰りました。石林往復は約240kmのバス旅では道路舗装が平でないのでジャンプして尻は痛く疲れましたがコーリャンの清酒(42元)での「反省会」は2日目とて賑やかでした。反省会の話題は紫水晶とケースのポシェットの事でした。これには後日談があります。紫水晶を布で拭いたら色が取れただのガラス製品、ポシェットのチャックはすぐ壊れたとか、千円(シェンエン)で買える物ではないのですから・・・

第四日目 (11月23日 土曜日)  ★ 昆明市内観光し、午後香港に飛びました。

モーニングコール7:30、荷物を廊下に8:00に出し、朝食8:00,ホテル出発9:00です。ホテルのフロントで聞こえたバックグランドミュージックは「命くれない」でした。

市内観光は、インドから贈られた仏像を有する元代創建の水面に映る姿も美しい「円通寺(えんつうじ:ユアントンスー)」と断崖絶壁に立つ「西門の龍門(せいざんのりゅうもん:シーシャンロンメン)」から眼下に広がる「昆明湖(こんめいこ:クンミフー)」の眺望はすばらしいものでした。昆明湖は海抜1,885mにある高原の湖ですが魚や海老も豊富に生息していて漁をする帆船などおだやかな漁村風景も楽しめました。昼食はキノコ料理でした。

お定まりの日本人用お茶の店「雲南民族茶道館」に連れて行かれました。昆明のお茶の飲み方は1.茶器の底に湯をそそぐ、2.茶葉を入れる、3.茶器に湯を順次入れ暖める、4.並べた茶器に一斉に入れる、5.味見をして出す、6.三口で飲むのだそうです。解説後お茶をいただき購入となります。「高原鳥龍茶」、「茉莉茶(ジャスミンチャ)」、「茘技紅(レイシコウ)」、「龍井茶」、「迎賓茶」、「陳年普珥茶(プアルチャ)」、「茹苦茶(ジョクチャ)」などなどいずれも雲南省産のお茶が沢山ありました。また、「掛け軸」も10倍以上の値段も知らないで求めた品物と苦い思い出が残りました。これも反省会の話題となりました。

昆明空港16:50離陸(香港ドラゴン航空KA761便)し香港空港19:15着陸、夕食は「広東料理」でした。ビールを軽く飲んでリーガル・エアポートホテルにて総括の反省会をして就寝しました。

第五日目 (11月24日 日曜日)  ★ 香港を朝早く出発し仙台に帰りました。

モーニングコール5:00、朝食5:45、出発6:30、香港空港離陸8:10(香港ドラゴン航空KA320便) 仙台国際空港着陸13:20 入国手続きをして解散した後、11月20日集合時の逆コースで自宅までおくりました。お疲れ様。なお、今回の15名では、岩槻夫妻、大津夫妻、菊地夫妻、佐藤夫妻と3名の方々と我々職場の仲間4名に添乗員でした。添乗員の大崎祐子さんの弟が建設省青森工事事務所に勤務しているとか、「ゴマ塩」を振りかけるとご飯が格段に美味しくなることを教えて頂きました。「ゴマ塩」のステックは以後の旅行の大切な友となりました。また、便秘の治った一戸さんは効き過ぎて旅行期間中下痢に悩んだそうです。お粗末様でした。

記 佐々木 洋治

トピックス

原稿募集のお知らせ

編集委員会では、会員の皆様からの原稿を募集しています。

おもしろい話、地域の出来事等、ドシドシ、お寄せ下さい。まってまーーーす。

【問い合わせ先】  

担当:及川 公一郎