平成30年夏号(vol.50)

みやぎ会 鳳鳴大滝
鳳鳴大滝
みやぎ会の活動
平成30年ボランティア活動予定

みやぎ会では、東北地方整備局が行っている「ボランティア・サポート・プログラム」の認定を受け、国道48号の清掃活動を行っています。

活動は4〜11月の第4土曜日に、平成30年の活動は下記の日程で宮城総合支所駐車場に集合し、午前6時半から約1時間程度の作業を行う予定です。

(リンク先に実施した活動報告を掲載しています。)

ボランティア風景 
ボランティア風景

会員の広場

平成21年春号から『会員の広場』と言うコーナーを設けましたので、会員のあなた様の”常々思っていること”、”あなたの周りのあんな事、こんな事”等掲載をしていきたいと思いますので、是非ご愛読よろしくお願いします。

梓川のアーチダム3兄弟(奈川渡、水殿、稲核ダム)

目次

1.ダムの始まり(平成30年冬号(vol.48)掲載)

2.梓川(犀川、千曲川、信濃川)へ(平成30年冬号(vol.48)掲載)

3.大正池(平成30年春号(vol.49)掲載)

4.梓川のアーチダム3兄弟

5.おわりに

4.梓川のアーチダム3兄弟

戦後の水力開発ブームは激しい勢いで行われ、昭和34年完成の田子倉ダム、昭和35年の奥只見ダム、昭和36年の御母衣ダム、昭和38年の黒部ダム等に代表されるように相次いでダムが建設されました。昭和35年頃からの電力エネルギー転換により、火主水従となり、現在ではベース負荷を火力と原子力、ピーク負荷には主として水力を充てるように変わりました。そのような中で、発電規模は数十万から百万kwにもなる揚水発電が水力開発の主体として脚光を浴びるようになりました。

揚水発電はご承知の通り、標高差のある上下の貯水池(調整池)を使用し、夜間の余剰電力を利用して下池から上池へ水を押し上げ、翌日の昼間、上池から下池へ落として発電を行います。夜間に使用する汲み上げのために必要な発電量に対して7割程度しか発電できないのですが、昼間の需要ピーク時の電力供給に対応できます。

こうした大型の揚水発電が可能になった背景には、近年のフィルダム施工技術、地下発電所などの地下構造物の設計施工技術、揚水機器の高落差、大容量化技術、超高張力鋼の開発などの技術発展があります。

日本で初めて揚水発電が行われたのは昭和6年の北陸電力小口川第三発電所(出力3,800kw、揚程668m)だそうです。戦後、昭和26年に東北電力が沼沢発電所(出力43,600kw、揚程85m)を建設しました。ヨーロッパ等では19世紀末頃から揚水発電が登場し、昭和30年代、1955年頃から可逆ポンプ水車が普及し始めました。昭和40年代に入ると揚水発電の世界シンポジウム会議等も行われています。

梓川の3ダムも大規模揚水式発電所として建設されたダム群です。東京電力は信濃川支川梓川に3ダムを建設し90万kwの揚水発電所を建設する計画を策定し、工事は昭和39年に着手、昭和44年11月に完成しました。因みに、施工会社は、奈川渡ダム本体は鹿島建設、水殿ダムは間組、稲核ダムは佐藤工業です。(参考文献 水越達雄 梓川開発史 土木学会誌・57−1 JSCE・Jan・1972)

【 図−2 梓川鳥瞰図(出典:水越達雄 梓川開発史 土木学会誌・57-1 一部加工) 】
【 図−2 梓川鳥瞰図
(出典:水越達雄 梓川開発史
 土木学会誌・57-1 一部加工) 】

奈川渡(ながわど)・水殿(みどの)・稲核(いねこき)の3ダムはすべてアーチダムであり、奈川渡・水殿ダムで揚水発電が行われます。アーチダムでは日本最大の黒部ダムの完成から6年後の昭和44年に奈川渡ダムが完成しています。奈川渡ダムは現在では高さが第3位になりましたが、完成時は黒部に次ぐ高さの155mでした。水殿ダムは95.5m、稲核ダムは60mです。アーチダムがブームになった時代とはいえ、3つのダムをアーチダムで造るというのも大胆なようですが、当初、奈川渡ダムはアーチダム、水殿ダムはアーチと重力式、稲核ダムは重力式ダムでした。事業者側も様々な視点から検討し、アーチダムに変更して建設しました。同時期の施工を考えれば同一型式の方がむしろ効率的だとも思えます。(参考文献 梓川開発史 水越達雄 土木学会誌57-1 JSCE,Jan,1972、梓川発電計画 水越達雄 土木学会誌47-11 JSCE,Nov,1962)

東京電力関係資料から梓川の3発電所の概要とダムの諸元を表−1にとりまとめました。

【 表−1 梓川3発電所の諸元 】

項目単位安曇水殿新竜島
ダム名称 奈川渡ダム水殿ダム稲核ダム
形式 アーチダムアーチダムアーチダム
高さm15595.560
堤頂幅m1074
堤頂長m356343193
敷幅m352415
堤体積660,000304,000654,000
貯水池HWLm982853.5787
湛水面積ha2745751
総貯水水量123,00015,10010,700
有効貯水量94,0004,0006,100
発電有効落差m1357971
最大使用水量m³/s54236054
最大出力kw623,000245,00032,000

(出典:梓川水力開発工事報告 1972 東京電力 より加工)

3ダムの貯水池満水位は982、853.5、787mであり、700〜900mの標高地にダムが建設されています。奈川渡ダム地点の年平均気温は8°C程度、積雪は30cm程で少ないようです。玉川ダムの8.9°C、豪雪地帯と比較すると、緯度よりも標高が影響して気温は若干低いが、積雪は少ないという気象条件です。

3ダムを同時に施工するため、仮設備関係は共用しています。3ダム合わせて100万m³強のコンクリートを打設しました。共通の示方配合を用い、堤体規模が大きく、コンクリート量の多い奈川渡ダムは内部と外部配合コンクリートに分けていますが、水殿・稲核ダムは外部配合のみです。内部配合のセメント量(C+F)は180kg/m³、外部配合は200kg/m³です。さらに奈川渡ダムはセメント量の多い(220kg/m³)配合も使用しています。

コンクリート打設は、冬季の1〜2月の約2ヶ月が休止期間だけで、12月や3月は寒中コンクリートで施工しています。建設工期を考えてのことでしょうが、積雪が少ないからできたのでしょうか。

松本からダムサイトまで、工事用道路として現在の国道158号を13km区間について拡幅と付替により道路改良しています。奈川渡ダムまでは右岸側ルートですが、その上流上高地までは日本の代表的景勝地に通ずる観光道路になっており、奈川渡ダムを渡って左岸側に設けられました。このためか現在、奈川渡ダム天端は国道として供用されています。(参考文献 安曇発電所の建設工事について 三村誠三 発電水力No.111、水殿発電所の建設工事について 池田進ほか 発電水力No.106、新竜島発電所の建設工事について 佐藤友光ほか 発電水力No.103)

世界と日本のアーチダムの歴史に関して、荻原雅紀氏がダム技術センターの川崎秀明氏から話を聞きながらまとめており、よく整理されているのでとても参考になります。(アーチダムの進化を知りたい(世界と日本のアーチダム)、http://www.k-mil.net/hensyu/hagiwara/archdam1.html)

現代土木技術の発展はコンクリートの出現によるところが大きく、アーチダム、コンクリートダムもその恩恵を受けています。20世紀に入り、アメリカが設計施工の面でアーチダムの技術をリードしたといわれますが、アーチダムでも重力式アーチダムや通常の重力式コンクリートダムへと収斂していきます。一方で、ヨーロッパでは優れたダム技術者が多かったようで、よりコンクリートの少なくなるアーチダム(定角度アーチ〜ドームアーチ)が設計されるようになります。フランスのダム技術者アンドレ・コインcoyneは、1935年に世界で初めてのドーム型アーチダムとして完成したMare'ges ダムを設計しました。もう一人、イタリアのダム技術者カルロ・セメンツアsemenzaが有名であり、マルパッセダムの事故後に黒部ダムの設計にも関わっています。

悲劇もあります。コインの設計に為るマルパッセダムは1959年(昭和34年)に基礎岩盤からの崩壊事故を起こし、セメンツアが取り組んだバイオントダムは1963年(昭和38年)に貯水池斜面の大規模滑りで事故を起こしています。マルパッセダムは423名、バイオントダムは2,125名にも及ぶ犠牲者が出、世界的にも著名なダム事故例として知られています。多くの教訓を残した2つのダムの設計者達、コインは事故の後に、セメンツアは事故の2年前に生涯を閉じています。

両ダムとも直接的にコンクリートのダムが壊れたのではなく、基礎岩盤の変形・シームの滑動によりダム堤体が変形を受けて壊れたことや貯水池斜面の滑りという地質岩盤状況を読み取れず、対策も十分でなかったことが原因です。その後、ダム基礎の岩盤力学や貯水池斜面の地滑り対策はダム設計の重要課題となり、調査研究も大きく進展しています。

1960年代は日本でもアーチ式ダムの最盛期といえるでしょう。アーチダムはその構造美とともに経済性の追求もかね合わせたダム型式です。しかし、1960年代をピークに以後アーチダムの建設は減少していき、2001年の温井ダム、奥三面ダムが最後になってしまいました。16年も前のことになります。

昭和32年(1957年)に大ダム会議が「ダム設計基準」を策定しています。当時アーチダムは九州の上椎葉ダムだけだったこともあり、別途小委員会で設計基準について議論されています。昭和35年(1960年)11月に大ダム会議でアーチダム基準審査分科会が設置され、昭和40年(1965年)5月にダム設計基準が改訂され、第4章アーチダムが付け加わりました。

昭和30年代はイタリアやフランスで続々とアーチダムが建設されていた時代であり、アーチダムの全盛という趨勢でした。一方では、マルパッセダムやバイオントダムの決壊事故が発生しています。アーチダムの魅力、有利性はあるものの、アーチダム絡みの決壊事故もあり、ダム関係者にとっても悩ましい状況だったようです。

宮城県北東部を流れる江合川の上流にある鳴子ダムは、昭和32年(1957)の完成であり、日本人技術者のみにより建設されたアーチダムです。平成28年度の土木学会選奨土木遺産に認定されました。鳴子ダム完成以後、日本でもアーチダムが続々と造られてきました。とはいっても、アーチダムはこれまで60程度しかありません。東北地方では大倉ダム、湯田ダムを数えるのみです。(日本ダム協会ダム便覧によると、2015年時点で完成アーチダム数は64。戦前によく造られた軸線にアーチをいれたものは重力式ダムと分類されています。)

鳴子ダム工事誌に寄せられた照井隆三郎元東北地建局長の序文からは、鳴子ダム建設の経緯と事情やアーチダムを目指していた事務所の雰囲気を感じ取れます。照井局長は宮城県職員として初期の計画に携わり、鳴子ダムが直轄ダムとなった後も東北地建へ転勤して鳴子ダムと関わることになった人です。

「内務省以来建設省には手堅い伝統もあるので、いざ責任をもってこれに踏み切ることになると、28,9年の頃としては、大変な決心が必要でした。」とあります。岩盤調査の状況を見ては迷い、先行する上椎葉アーチダムの立派なボーリングコアに驚きながらも、オール建設省で研究と議論を重ねて、ようやく31年1月にアーチダム実施について最後の踏切をつけたそうです。基礎岩盤処理や洪水吐の設計などの課題についても具体的に記載されており、事務所での苦労がよく表現されているように思います(鳴子ダム工事誌 1959年)。

鳴子ダムの経験者達はその後、大倉ダム、湯田ダム、目屋ダムなど東北のダムや天ヶ瀬ダムなどへ転出していきました。湯田ダムも鳴子ダム、大倉ダムに次いで建設されたアーチダム(重力式アーチダム)です。

湯田ダム工事誌によれば、重力式ダムとして計画が進められましたが、鳴子ダムがアーチダムとして設計施工されたこともあり、昭和32年2月頃からアーチダムの検討に入りました。確かに工事誌には下流面勾配1:0.8の重力式ダムの場合の標準断面図が示されています(湯田ダム工事誌p2-65)。コンクリート量の減少、工期短縮、工費節減という経済的理由によりアーチダムの建設に踏み切ったとあり、基礎があまり良好ではないことを考慮し、断面構造は厚肉の重力式アーチダムを採用しています。

ダム工事誌の巻頭文で、2代所長岩橋武彦氏はダムサイト右岸部の地質岩盤特性に起因する技術的な問題、基礎部の陥没事故について言及しています。ダムの基本問題に関するものとして右岸基礎領域全体の処理方針の修正が行われました。

ダム工事誌でも第4編ダム本体工事に基礎処理とは別章の第6章陥没処理工事(湯田ダム工事誌4-168〜198)にまとめられています。バイパストンネルの直上約40mの地表まで到達する陥没が発生し、バイパスは崩落岩塊により閉塞し、仮締切りダムを越流、ダム本体工事場所まで流水が流れこみました。

右岸アバットは地質不良のためスラストブロックで受けており、その大きさは高さ40m、長さ54m、底面積は1,500m²程度です。スラストブロック下部にはアーチ半径方向に数本の断層群があり、スラストブロック堤敷には別な断層が交叉し破砕域となっていたところです。陥没はこの計画基礎面箇所に発生しました。高さ約45m、広さ上面で1千m²、下面で6百m²、陥没量3万5千m³程度の規模でした。

打設開始から3年目を迎えた昭和36年4月26日に陥没事故が起こり、5月一杯は陥没処理のため、本体コンクリートの打設は中止されました。これ以降、岩盤模型実験も行い、検討を重ねて、断層群の処理と合わせ、陥没処理工事が実施されました(湯田ダム工事誌 昭和41年3月)。陥没事故の話についてダムの先輩諸氏からさわりだけを拝聴した記憶があります。ダム敷にこのような大きな穴が開いたら、今時では大きなニュースとなって大騒ぎだったでしょう。

さて、本題の3ダム現地視察のことについて話を進めます。

平成29年6月29日、仙台8時16分発東京行きのはやぶさに乗車します。大宮で北陸新幹線、長野で松本経由の名古屋行き特急に乗り換え、松本着は12時ちょっと前。心配させられていた天気は雲が多いものの、明るさも少し見える空模様でした。

今回は、ダム視察とともに上高地にも行くよ、と誘い、妻と次男の3人旅となりました。松本駅ビル内で昼食をすませ、アルプス口からレンタカーを利用し、一路、梓川の3ダムへ向かいました。遠方のアルプスの山々は残念ながら見えません。

30分ほどで稲核(いねこき)ダムに到着。稲核ダムは高さ60mです。上流2つのダムに比べると小型です。肉厚な断面で、フィレットを設けています。

右岸側に管理所がありますが、閉じられており、管理所前の狭いスペースに駐車しました。ダム下流に国道158号の橋梁があり、そこからダムを見下ろすことになるのですが、この橋には歩道がなく、狭い路側に立つことになります。大型バスやダンプトラックが多く通過します。観光地故にバスが多いことはわかりますが、ダンプの多さには驚き、傍を通ると冷や汗せものです。

ダム下流面に「東京電力稲核ダム」の銘板が目立ちます。左岸側の管理用道路から歩いて近寄ってみると、やはりダム天端へ立ち入ることはできず、したがってダム堤体に近づくことはできません。

洪水吐ゲートが堤体中央部にあります。もちろん放流はしていません。管理所周辺にも説明板もなく、一般の人々に説明しようとする意思はみえません。左・右岸へ歩きながら眺めては写真を撮影するだけに終えることにしました。国道158号の橋を車で走りすぎる時に、関心のある人が一瞥して気がつく程度の存在感といったらよいでしょうか。

【  写真−1 稲核ダム  】
【 写真−1 稲核ダム 】

稲核ダムは予想以上に地質が悪く、岩盤改良に苦労したようです。現場の責任者は上司から「ダム型式をアーチから重力式に変える勇気はあるか?」と問われる程でした。工事報告資料では、想定外の断層、それも幅が10mに及び、河床を上下流方向に走るものが出現したもので、入念な処理工事が必要になりました(佐藤友光 水力開発、思い出すままに 電力土木No.325 2006.9)。

【  写真−2 水殿ダム近く 道の駅「風穴の里」  】
【 写真−2 水殿ダム近く 道の駅「風穴の里」 】
【  写真−3 水殿ダム周辺公園(ふれあい広場)  】
【 写真−3 水殿ダム周辺公園(ふれあい広場) 】

もやもやとした気分のままに、早々に稲核ダムをたち、水殿(みどの)ダムへ向かいました。峡谷は深さを増し、湛水面が続きます。深い緑で水面に山影が映ります。水殿ダムまでの時間は10分程度かと思いますが、ダムサイト右岸下流の高台に道の駅「風穴の里」があり、ここで駐車しました。木々の間にダム堤体が見えます。国道からダムへ通ずる道路があり、ここを歩いて下ります。立入禁止でもないので車でも問題はありません。見ていると、軽トラックや乗用車がトイレの利用のために国道から降りてきます。国道を挟んで反対側に道の駅があるのでそのトイレを利用すれば良さそうですが、東京電力のダム公園のトイレを利用しているのです。ここの土地事情に詳しい人々でしょうか。

ダム管理所は閉じられていましたが、ダム天端へは車止めの間をすり抜けて歩いていけます。対岸左岸側の斜面上方にダムの名前を刻んだ銘板が設置されているのですが、雑草や雑木が繁茂し見えにくくなっています。事情通でなければ分からないでしょう。天端道路も幅員は4m程ですが、舗装と地覆の境目から雑草が勢いよく生えています。維持管理が十分でなく、おやおやと思ってしまいます。

【  写真−4 水殿ダム天端付近・左岸を望む  】
【 写真−4 水殿ダム天端付近・左岸を望む 】

水殿ダムは高さ95.5mあります。奈川渡ダムよりは低いのですが100m級の立派なアーチダムです。谷幅が広く、右岸側にアーチスラストを受ける重力式コンクリートダム部分があることが構造的な特徴となっています。

【  写真−5 水殿ダム(左岸下流から望む)  】
【 写真−5 水殿ダム(左岸下流から望む) 】

右岸側は重力式コンクリートダム型式で洪水吐部分となっています。スキージャンプ式の洪水吐で、稲核ダムの湛水池へ放り込む構造となっています。アーチダム本体には放流設備がなく、シンプルな構造です。左岸側にはガントリークレーン、天端道路、発電取水口部分まで1条のレールが布設されています。天端道路も中央部発電取水口の区間は7mの幅員です。公表されている幅員7mはこの部分のことを指しているのでしょう。

【 写真−6 水殿ダム 洪水吐 】
【 写真−6 水殿ダム 洪水吐 】
【 写真−7 水殿ダム天端状況 】
【 写真−7 水殿ダム天端状況 】

左岸側下流の道路上の斜面にはネットで保護工が施されています。「落石注意」という警告標識のとおり道路面には落下してきた小石が相当数散在しています。100m級のダムの規模感が感じ取れ、下流面のキャットウオークが美しい。上流側へかなり湾曲しているドーム型のアーチ形状のため、雨に当たらない部分が白くなっており、下流面の中央部の白さが目立ちます。他方、右岸側の重力式コンクリートダムは、50年の歳月を感じさせるコンクリートです。

水殿ダムは奈川渡ダムと稲核ダムの間に位置し、2つのダムの揚水発電所に関わっています。このようなダムは中部電力の矢作第1、第2発電所の富永ダムもあるが希少な事例だそうです。

長野県は東京電力の管轄範囲だと思っていましたが、中部電力のようです。松本営業所名を付けた中部電力の車が走って行きます。改めて周辺の電力会社の管轄範囲をみると、新潟県は東北電力、岐阜県・長野県は中部電力、山梨県は東京電力、静岡県には東京と中部電力が混在していることがわかりました。

ここでちょっとダムの細部技術、天端高欄の手摺部分を見ると、天端道路側に傾斜が付けられ、角は丸くして、表面は洗い出しされてコンクリートのマトリクス部分がよくわかる状態となっています。表面を流れる水を規制誘導するとともに、角を丸くして景観上の配慮と効果を狙ったものでしょう。奈川渡ダムも同様の造りでした。

水殿ダム全体の印象について敢えて言えば、雑草等の処理を行い、ダム周辺をもっときれいにしてほしいものです。管理所周辺には公園として整備された区画もあり、ダム完成当時は観光客を意識したことも窺えるのに残念です。経緯はわかりませんが、管理所の裏側には神社もありました。

萩原雅紀氏がダム写真集「ダムに行こう!」の中でアーチダムの代表の一つに水殿ダムを取り上げ、写真と次のような趣意の推薦文をしたためています。

『他の2ダムと比べると地味な存在だが、実は100m近い巨大ダムで、車を通らずのんびり歩いて見学できる。慎ましく佇む隠れイケメンである(ダムに行こう! 萩原雅紀 学研プラス 2016)。』

東京電力が福島第一原発事故対応で厳しい経営を余儀なくされているとはいえ、水力発電は古典的な再生可能エネルギー施設として評価されてもよいものであり、いま少し小綺麗に管理して欲しいものです。水殿ダム近傍には道の駅もあって、集客しやすい条件が付加されているにも拘わらず、水殿ダムへの誘導など知恵と工夫が足りません。東京電力の奮起に期待したいと思います。

【 写真−8 奈川渡ダム管理所 】
【 写真−8 奈川渡ダム管理所 】

水殿ダムから奈川渡(ながわど)ダムへ向かう途中のトンネルは断面が狭く、対向車線のダンプトラックなどは中央区画線をタイヤが跨いで走ってきます。自分の車の側方の余裕がなくなり、気になって仕方がありませんが、そのようなトンネルを幾つか過ぎると、次のトンネルとの間に奈川渡ダムが現れます。右岸下流国道脇に管理所があるものの、閉じられていました。但し、トイレ施設の利用は可能で、玄関から入るとダムのパネル展示コーナーの奥にトイレがありました。

展示コーナーにあるテーブル上に、ダムカードはない旨の説明板がありました。ダムカードは国交省等のダムでは作成しているが東京電力では作っていないと書いてあります。うちは無関係と威張っているようにもみえます。

管理所から道路を渡って上流側に、駐車場があり、閉鎖された食堂の建物もありました。湖面は満水位状態で、ダム天端と満水位の標高が上流面に表示されています。標高は約1,000m。松本が約650m、上高地が約1,500mなので、中間地点としては1,000mぐらいになるのでしょう。

【 写真−9 奈川渡ダム安曇発電所案内板 】
【 写真−9 奈川渡ダム安曇発電所案内板 】

それでは、日本で一番高い処に建設されたダムは何処にあるでしょうか。

日本ダム協会のダム便覧によると、第1位南相木(みあいき)ダム:標高1,532m長野県南相木村、第2位野反(のぞり)ダム:標高1,517m群馬県六合村、第3位上日川(かみにっかわ)ダム:標高1,486m山梨県甲州市となっており、長野や群馬県など内陸地域に存在しています。奈川渡ダムより高地にもダムは造られているようです。

【 写真−10 奈川渡ダム標高表示板がある上流面 】
【 写真−10 奈川渡ダム標高表示板がある上流面 】

奈川渡ダムは高さ155mあり、黒部ダム(186m)に次いで第2位だったのですが、後に完成した温井ダムに1m差をつけられて第3位となってしまいました。高さを170mクラスとすることも検討段階ではありましたが、経済性の比較結果やマルパッセダムの事故を受けて慎重になり155mに落ち着きました。

奈川渡ダムの特徴は断層処理とトンネル洪水吐、スラストブロックにあり、発電所背後地の法面保護工が圧巻の景観を呈しています。それは土木学会誌の表紙を飾っています。ダム堤体には洪水吐施設がなく、トンネル洪水吐が左岸側にあります。ダム直下の範囲を目一杯使って発電所を設置したため、洪水吐を堤体に配置することが困難となり、トンネル式になったそうです。黒部ダムは地下発電所としているので洪水吐や放流設備は堤体に設置することができました。通常のダム発電所と揚水式発電所では規模が違うからでしょうか。発電出力規模は約62万と33万kwと倍半分の関係です。黒部ダムでは堤体にある左右2条の放流設備からの放流で観光客の人気を集めているのに対し、奈川渡ダムはダム堤体から放流を見ることができません。今や、放水シーンはダムにとって欠かせないものとなっていることを考慮すれば、残念な気もします。

多目的ダムでは、洪水調節や利水補給のための放流設備の配置が重要な設計課題となるのですが、発電ダムでは、特に揚水発電のように大規模発電所となると発電所設置箇所も発電規模によっては考慮すべき大きな課題となります。

奈川渡ダムには、このほかに発電用取水口が堤内に2条、左岸堤外に4条設置されています。

金子元梓川水力建設所長は工事報告の巻頭文で、技術的委員会として岡本舜三教授や国分正胤教授、電中研の研究者などその分野では著名な実力者に指導を仰いだこと、北アルプス・上高地の景勝地の入口ということで景観にも環境との調和にも特別留意したと述べています。また、工事前期において50名の犠牲者がでたことも記述されていました。

【 写真−11 奈川渡ダム管理所前の国道地下歩道 】
【 写真−11 奈川渡ダム管理所前の国道地下歩道 】

地元村との用地補償問題も紆余曲折があったようですが、下流中信平農業水利事業(灌漑面積10,900ha)も同時に行われ、長野県の斡旋、指導のもと東京電力に対する全面的協力が行われ、他地点に見られるような幻の部落など1軒も出現しなかったと述べています。用地補償関係に関する資料が手元にないので詳しくは知り得ませんが、大きな問題は起こらなかったと見えます。3ダムにより安曇村、奈川村の多くの家屋(水没は60数戸だったようです。文献は佐藤友光による。)が水没することになり、住民の多くは波田町へ移転しました。安曇村、奈川村、波田町は平成の大合併により松本市の一部になっています。(文献 梓川水力発電工事報告 東京電力 1972年)

現在では珍しいことなのですが、ダムの天端が国道158号として供用されています。歩道もありますが、交通量が多いためか車道には立ち入り禁止となっており、車道との境にロープ柵が設置されています。管理所の前に横断地下道が設けられており、堤体の上部を上下流方向の通路に使用しています。設備をみるとダム完成時から造られたものと見受けられます。上高地や高山へ通ずる国道ルートであり、トンネル〜ダム天端〜トンネル、しかもアーチダムの曲線形では上流側の駐車場から管理所へ路上を横断していくことは危険だと判断したのでしょう。

【 写真−12 奈川渡ダム天端(国道158号) 】
【 写真−12 奈川渡ダム天端(国道158号) 】

国道となっているダムの天端には照明灯がありません。水殿ダム、稲核ダムもそうです。代替にはなりませんがポールが3本立っています。堤体中央部分は、発電所取水口のため上流側に張り出す構造となっていて、広くなったスペースを利用してポールが設置されているのですが、何とも不思議です。天端幅員は10mです。

左右岸のアバットにスラストブロックが設置されています。堤体は水殿ダムをひとまわり大きくしたアーチダムです。約150mもある谷の深さを実感します。堤体直下流部に発電所があり、相当数の車両が駐車しています。下流を望むと、渓谷左岸沿いに管理用道路らしきものが確認できます。この道路の下流側の出入り口はどこでしょうか。国道158号は右岸側を走るのですが、左岸へ渡る場所は稲核ダムか水殿ダム、あるいは管理用道路橋があるのかどうかです。右岸の管理所からあるいは左岸の天端前広場(ガントリークレーン置き場)から堤体を眺望できますが、黒部ダムのように堤体全貌を下流側から見ることができるビューポイントにはなっていません。

【 写真−13 奈川渡ダム 右岸より左岸を望む 】
【 写真−13 奈川渡ダム 右岸より左岸を望む 】

右岸下流〜発電所上部の斜面は広範囲にわたって、法面保護工が施工されています。土木学会誌Vol99.No.2Feb.2014に「大地の手触り②岩盤の補強」と題して八馬智氏による写真と文章が掲載され、表紙を飾っています。現地で対岸の天端からみると、いささか趣が異なります。右岸部アバット岩盤斜面の保護により発電所やダムの安全性を確保しています。

【 写真−14 奈川渡ダム 左岸より右岸を望む 】
【 写真−14 奈川渡ダム 左岸より右岸を望む 】

奈川渡ダムの名称について、ウイキペディアによると、当初東京電力が安曇ダムと命名したものの、奈川村の住民の反対を受け、地名由来の奈川渡ダムとなりました。現在は合併して松本市になっていますが、国土地理院の地形図では旧安曇村と奈川村の行政境にダムが位置し、「安曇ダム」では奈川村の人々が納得しないということなのしょう。ダム位置の地名は奈川渡だったようですが、梓川を遡っていくと、前川渡、沢渡、湯川渡があり、梓川に合流する奈川筋では黒川渡、寄合渡がある。川・沢を渡る場所だったのでしょうか。

【 写真−15 奈川渡ダム 天端より下流を望む 】
【 写真−15 奈川渡ダム
        天端より下流を望む 】

東京電力の工事報告にはダムの名称に関する前述の話はありません。用地補償関係については省かれており、水没戸数や交渉の経緯など知ることができません。国交省などのダム工事誌と比べると内容の点でもの足りなく、技術的な部分だけの工事報告書となっています。

生憎の天気で、背景となる山並みを拝むことができないため、貯水池周辺の景色には寂しいものがありました。残念ながら背景に日本アルプスを望むダム湖を堪能することは叶いませんでした。

奈川渡ダムからこの日の宿、さわんど温泉へ向かいます。国立公園上高地の環境保全のために年間を通してマイカー規制が行われています。上高地に入る手前、沢渡(さわんど)地区に駐車場が数カ所設けられ、ここから上高地へはシャトルバスかタクシーを利用することになります。タクシーは定額制料金となっているので安心だし、バス料金3人分程度なので、グループの場合で時間の制約を嫌うのであればタクシー利用が良いでしょう。

【 写真−16 堤体右岸下流部岩盤保護工 】
【 写真−16 堤体右岸下流部岩盤保護工 】

夕刻より雨が降り出しました。ホテルの宿泊客は我が家族ともう1組の夫婦の2組でした。6月の平日、シーズンにはちょっと早いのかもしれません。温泉は弱アルカリ性で柔らかい泉質です。男風呂は次男と2人だけ、妻は女性風呂に1人だけでゆったりと入ることができました。ホテルの名称に「上高地」を使っていますが、このあたりも上高地と呼ぶ範囲なのか、と疑問も湧いてきます。しかし、食事も風呂もまずまずで料金も適当でした。「大雪渓」という松本の地酒はおいしく飲めました。

翌朝、8時15分、ホテル傍のバス停から上高地へ向かいました。時折雨が降りしきり、昨日以上に天候が悪く、周囲のアルプスの山容は見えません。

下流の大正池から河童橋までは徒歩で約1時間の行程であり、遊歩道も整備されているようで、雨の中でも散策する旅行者を見かけました。

【 写真−17 河童橋と梓川 】
【 写真−17 河童橋と梓川 】

40数年前に北アルプスを縦走し、槍ヶ岳から河童橋まで下ってきた経験があるものの、当時の状況については全く記憶にありませんでしたが、晴れていればアルプスの山々のすばらしい眺望に感動したかもしれません。

梓川は、蛇籠を使って渓谷の河岸が保護されていました。雨が降っているので水量は豊かだと思いましたが、濁りがほとんどないので降雨の影響は少なく、自流がそもそも多いのかと考え直したりもしました。ポスター写真をみると確かに流況は豊かです。妻は趣味の日本画の題材になりそうだと河童橋周辺の景色をタブレットで撮影していました。

【 写真−18 松本城 】
【 写真−18 松本城 】

河童橋周辺を散策してすぐに松本へ下りました。シャトルバスとレンタカーを乗り継いで約1時間で松本に着きます。松本市内を散策しながら松本城へ辿り着きます。400年ほど前に建設された城郭がそのまま現存している貴重な城です。松本市内の散策も楽しく、一見の価値はあります。幸いにも雨に降られることもなかったのですが、日射しもあり、却って夏のむし暑さを強く感じ、汗ばむほどでした。

午後3時過ぎに松本を立ち、往路の逆コースを経て仙台へ戻りました。

5.終わりに

上高地から流れる梓川に3つのアーチダムが連なって建設されていました。揚水発電が花形の時代、ダム技術も高揚していた頃です。大正池の発電利用と堆砂を排除して大正池の埋没を防ぐ維持管理も行っていることを知りました。自然が造った姿を維持し保つための人間(東京電力)の努力にも敬意を表したいと思います。今回のダム巡りは午後の半日の時間でしたが、事前に勉強しておいたアーチダム、揚水発電等の知識が大いに役にたちました。

中国電力の吉岡一郎氏によると、中国電力では30年以上前には会社最後のダムの建設は終わっていたそうです(ダム工学会誌Vol.No.2 2017 巻頭言)。そして、中国電力では平成の初めに揚水発電所建設の構想が盛り上がったものの、バブルとともに消えたそうです。

全国的にみれば揚水発電施設はその後も建設されています。当時の揚水発電は夜間の余剰電力を使って水を上池ダムへポンプアップし、昼間にその水で発電を行うとするものです。現在では逆に再生エネルギーの普及が進んで日中の余剰電力が顕著になってきており、日中の余剰電力を使用して、蓄電やポンプアップして再生エネルギーの出力減の時に発電し、供給量を調整する方策も考えられています。実際に、九州電力では、太陽光発電の普及が進んで2013年頃から発電量が急増し、今年(2017年)5月のピーク時は需要の7割をまかなっています。そのため、2014年頃から昼間の余剰電力を使った下池から上池ダムへのポンプアップ回数も急増しているということです。(参考:朝日新聞 2017年10月13日記事)

梓川の3ダム・水力開発事業はアーチダムや揚水発電さらには安曇野を潤す頭首工への用水の安定供給化を図った大事業です。ダムブームが静かに拡がっている時代に、有名観光地への国道沿いにダム群が並ぶ絶好の場所に位置しているのに惜しい気もします。せめて案内板、説明板ぐらいは丁寧に配置して欲しいものです。ブームに乗り遅れないように、ダムやエネルギー開発の歴史を知ってもらうための広報についても再考できないものでしょうか。

昭和42年7月6日に当時の皇太子殿下ご一家が奈川渡ダム展望台より工事現場をご視察されたということです(工事報告p9)。ダム工事の最盛期に現在の天皇や皇太子にご覧いただいたようです。日記から辿ると、学生時代の北アルプス縦走は昭和46年の7月下旬でした。とすれば、この頃3ダムとも完成し、運用開始間近の時期に符合します。上高地から松本へ下る道路は国道158号で、路線バスを利用したと思うのですがダムに関する記憶はありません。千葉県から4泊5日の行程には厳しいものがあり、疲労困憊状態で、バスから見える風景など眼にしても記憶に残らなかったのかもしれません。46年後の今夏にようやくダムを確認したというわけです。

奈川渡ダムはトンネル間の明かりの区間の天端をあっという間に通過してしまい、水殿ダムは国道から見えにくい、稲核ダムは下流の橋梁を数秒で通過してしまうというように、この3ダムは特に関心がなければ見落としかねません。下流側からダム全体の姿を望めるビューポイントでもあればよいのかなとも思います。東京電力は自然環境との調和と保全に留意したと工事報告で述べています。建設当時としては、環境に配慮した機能設計ではこの配置、この姿で良かったのでしょう。個人的な感想ですが、東北地方のGダムやSダム、あるいはIダム等のように自然を圧倒するような大迫力の姿を誇示するよりは慎ましやかでよいと思います。

それにつけても、アーチダムはいいですね。シリーズで連続するダム群の事例は日本でも珍しくはないと思いますが、同時に連続する3つのアーチダムを建設したというのは、揚水発電事業とはいえあまり例はないでしょう。そんなダム造りを着想した関係の技術者達に感心するばかりです。

記 島田 昭一

 
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