平成27年夏号(vol.38)

みやぎ会 鳳鳴大滝
鳳鳴大滝
みやぎ会の活動
平成27年ボランティア活動状況及び予定

みやぎ会では、東北地方整備局が行っている「ボランティア・サポート・プログラム」の認定を受け、国道48号の清掃活動を行っています。

活動は4〜11月の第4土曜日で、平成27年の活動は下記の日程で宮城総合支所駐車場に集合し、午前6時半から約1時間程度の作業を行う予定です。

ボランティア風景 
ボランティア風景

会員の広場

平成21年春号から『会員の広場』と言うコーナーを設けましたので、会員のあなた様の”常々思っていること”、”あなたの周りのあんな事、こんな事”等掲載をしていきたいと思いますので、是非ご愛読よろしくお願いします。

黒部ルート見学と黒部ダム

平成27年春号(vol.37)に引き続き「黒部ルート見学と黒部ダム」の後編を御覧ください。

前編はこちらをクリックして御覧ください。

4.黒部ダム


 この日は、ゲートからの観光放流が行われる前でしたので、放水に伴う水しぶきは観られませんでしたが、晴天のもと堤体の奥に広がる湖や新緑、碧い空はまさに目にしみるといった光景でした。堤体下流部右岸側からは、ポスターやパンフレットの写真によく使用される構図の堤体もくっきりと見えました。左右岸側上部の堤体形状が少し妙だなと感じていましたが、改めてダムの関係資料をみると理解できます。

黒部ダムの基礎岩盤は花崗岩が主体で基本的には良好堅硬な岩盤です。ところが、堤体上部の左右岩アバットでは岩盤状況が悪くなってきます。折しも、ダムコンクリートの打設を始めた1959年(昭和34年)に、フランスのマルパッセダムが基礎岩盤の滑り破壊によりダムが決壊するという惨事が発生しています。黒部ダムは世界銀行から融資を受けている関係で、翌35年5月に世界銀行の技術顧問団の視察を受け、ダム高さを低減(186から150m)するようにと勧告されました。しかし、そうするとダムの容量が小さくなってしまい、所期の発電計画を達成できなくなります。

そのため、当時の世界的権威のミュラー博士の助言を得て、大規模な原位置岩盤試験を1年半かけて実施し、岩盤強度等の結果を得て、上部標高の堤体設計を変更しました。これが現在の形です。上部の高さ約50mの堤体は、下部の3次元ドーム型アーチダムの上に2次元のカンティレバーが乗るような構造で、その2次元のカンティレバーをウイングダムと称しています。上からみるとwの字のような形状に変えました。すなわち、上部ブロックはアーチダムではなく、重力式ダムと同じ、片持ち梁構造です。

この時点では、堤体は186mのうち120mほど打ち上がっている状態で、世界銀行の技術顧問団の勧告を設計変更により回避しましたが、標高1,400m(ダム高さ約130m)より上については、1年に10mずつ湛水させ、岩盤挙動を計測しながら慎重に湛水を進めたということです。1960(昭和35年)年に湛水開始し、満水位になったのは9年後の1969年7月です。ダムの竣工は1963年ですから、その年からも6年が過ぎています。それ以降長期間にわたって挙動を観測、監視しているのはこのような経緯があったからでしょう。

約50年間の観測記録をとりまとめた報告書(STATIC AND DYNAMIC BEHAVIOR OF KUROBE DAM)が日本大ダム会議より発行されています。私も買い求め、英文に苦労しながら読み始めています。このような図書を出版することにも感服します。関係ダム技術者達の矜恃が脈々と受け継がれているのでしょうか。

見学記念に湖上遊覧船の5割引優待券をもらったこともあり、天気もよいので湖上遊覧船に乗ってみました。乗船場所は左岸側やや上流の位置にあり、右岸天端から、トンネルや狭い管理用道路を10分程度歩いたところにあります。湖面上流からみるダムの景観は湖面が満水状態になっていることもあり、中央の越流部から左右に帯のように水面上に広がる堤体と、せり上がる右岸側急崖斜面とその上方に建つ展望施設などが眺望できます。湖面の背景となっている立山連峰、後立山連峰の雄姿、新緑と残雪、湖水面と相まってすばらしい自然景観でした。

ダム天端、右岸側にはコンクリート壁の台座上に創られた6名の彫刻像の慰霊碑があります。彫刻家・松田尚之氏の作品で、「尊きみはしらに捧ぐ」という文字が刻まれています。厳しい大自然の中の工事、50年以上も前の時代の工事です。工事に伴う多くの犠牲者(171名)がでています。最近のダムでは死亡事故も少なくなったので、慰霊碑を見かけることも減ってきたようですが、この黒部ダムの慰霊碑は犠牲者に完成したダムをじっくり見てもらい、安堵してもらうような意図を感じますし、訪れた人々にこの慰霊碑(有名?)をよく見るようにと暗示しているようです。

観光放流が始まる前とあってか、訪れる人はそう多くはなく、ダム周辺は静かな雰囲気でした。これがよかったかもしれません。このようななかで大自然に融和した湖と黒部ダムをゆっくり堪能できたことは幸いでした。

帰路は、トロリーバスにより破砕帯で有名な関電トンネルを通り、扇沢へ向かい、そこで路線バスに乗り換え、信濃大町温泉で宿をとります。翌朝、松本、長野を経て、仙台へ帰ってきました。充実と満足の2泊3日の旅でした。

5.再び、くろよん

くろよん、この壮大な事業は、人跡未踏の秘境、黒部峡谷に分け入り、悪戦苦闘の末、エネルギー開発という人間に利する行為をやり遂げたものです。自然環境の破壊という面ではこれに異論を挟む余地もないのですが、現場に立ってみると、そのことはあまり感じませんでした。ダム屋の奢りと偏見かもしれません。黒部峡谷という大自然は厳しく、強靭でしたが、犠牲を払いながらも人間が大自然に折り合いをつけてもらい、今の姿に収まっているように思います。

関西電力の供給地域の人々が黒部川で発電された電力を使っていることをどの程度理解しているかわかりませんが、現在、このような秘境にいとも簡単に訪れることができるのは先人のダム技術者達のおかげです。黒部川の電源開発事業前後にこの大自然がどう変化したのか、どのような影響を受けたのか、などを考えることなど些末事のように思え、大自然の中に融和、融合したダムと湖に見入るばかりです。改めて、くろよんを造った先人に深く感謝し、犠牲となられた皆様に黙祷いたします。

次回は、紅葉の時期を選んで、再びくろよんに出かけてみたいと思っているところです。

参考文献
(1)平成26年度黒部ルート見学のしおり 黒部ルート見学公募委員会事務局
(2)黒部奥山をひらく  関西電力株式会社パンフレット
(3)くろよん      関西電力株式会社パンフレット
(4)黒四の思い出 吉田 登      発電水力70
(5)黒四の地質  田中治雄ほか 発電水力70
(6)ダムの設計 長野秀二郎ほか    発電水力70
(7)黒部ダムの長期挙動に関する考察 森本浩ほか 電力土木 275
(8)黒部ダムを回顧して 近藤信昭   電力土木324
(9)くろよん建設時代などの思い出 渡辺威 電力土木337

(記  島田 昭一)

キャンプを楽しむ

山野にテントを張って宿泊をする、要するに野宿ということになるが、私の人生の中では比較的長きにわたって親しんできた遊びである。

キャンプとの出会いは、建設省に入省して間もない二十歳前後のことである。当時は労音とか労演という全国的な組織があって、歌手や劇団を呼んで市民会館などでフォークソングなどの歌や新劇などを楽しんでいた。確か、そういった団体が主催し、八甲田山や十和田湖畔などでキャンプし交流を深めるイベントがあった。そういうところに参加したのがきっかけであった。

当時は、職場に業務用のキャンプ道具が備えてあって、業務で使っていなければ借りることができた。その用具を借用して職場の同僚や友人知人を誘ってあちこちにキャンプするようになった。

あの頃のキャンプで忘れられない事件がある。昭和44年、22歳、建設省青森工事事務所に勤務していた時のこと。車2台で同僚及び友人と下北半島の薬研温泉の奥にキャンプに行った。西の方に台風が近づいて来ているので、上司である課長には中止するように言われたのだが、若気の至り、十分注意するからといって強行したのである。それでも課長は、何かあったらすぐに連絡するようと言って送り出してくれた。

薬研温泉から林道を奥地に入り、適当なところを見つけてテントを張った。夜になると予想以上の豪雨になり、恐ろしくて眠れないほどであった。

朝になって雨は止んだがテントから出てみてびっくり、林道は豪雨で削られ、渡ってきた木橋は一部の橋脚が流されて無くなっていた。橋の構造の関係で、一部の橋脚が流出しているにもかかわらず、橋そのものは残っていて、外見上は渡ることができる状態であった。

腹が減っては戦が出来ぬ、まずは朝御飯を作っていると、営林署の人たちが10人位その橋を渡ってきたのである。橋脚が欠落していることを知ってか知らずか?10人くらい渡ってきたということは、軽自動車一台はぎりぎりセーフかも?スペアタイヤ、後部座席などをすべて下ろせば大丈夫と判断した。若気の至りである。私より体重が軽い同僚が運転、私は橋げたの挙動監視役に。衝撃を加えずに静かに走行し無事通過した。もう一台も渡し、途中の土砂崩れ場所は土木屋の知恵を駆使して突破した。

青森市内に戻ると、寮の周辺は30cmくらい冠水した痕跡が残っていた。もちろん、薬研での事件については口をつぐんだままである。

その時送り出してくれた課長には、その後もいろいろとお世話になった。残念なことに比較的若くして亡くなった。

もうひとつ事件をあげる。昭和45年、23歳のこと。同僚(前出の同僚とは別、3歳先輩)と二人で東北一周をすることになった。私は、軽自動車スバルR2の新車を買ったばかりでお金はない。なのでガソリン代を含めてすべての経費は年上である同僚が出し、私は車の提供と運転のみである。

当時住んでいた大鰐町を出発し、八戸を経由して、改築事業中の国道45号を南下。途中、宮古市浄土ヶ浜でキャンプ。翌日仙台で七夕を見て山形蔵王まで行き車中泊。次の日は裏磐梯の五色沼周辺でキャンプ。翌日、磐城の常磐ハワイで遊ぶ。

帰路は国道6号を仙台に向け北上、途中相馬あたりの海岸でテントを張ってキャンプ。事件はそこで起きた。

当時はバイクの暴走族が盛んなころで、夜中まで騒いでいてなかなか寝付かれなかった。そのため余計にぐっすりと寝込んでしまった。朝は早めに目が覚めたので、朝食を食べず仙台に向かった。仙台に着いて東北地方建設局にいる先輩に顔を出すと、朝ごはんを食べていないのであればということで近くの喫茶店で御馳走してくれた。

先輩に別れを告げ、次の目的地である日本海側酒田方面を目指す。仙台市内を抜けて泉付近でガソリンを補給した。お金を払おうと同僚が財布を開けると、お札が全然なく小銭ばかりしか入っていない。あのキャンプ場で爆睡している間に抜き取られたに違いない。財布はズボンのポケットに入っていたし、朝からお金を使っていなかったので気が付かなかった。こんなことになるんだったら節約しないでガンガンお金を使えばよかった。

車のダッシュに入っていた小銭を合わせると何とかガソリン代は間に合い、残りは百数十円であった。さっき別れた先輩からお金を借りるか迷ったが、ガソリン満タンで大鰐まで帰られる。昼飯抜きで帰ることにした。幸いにして建設省の職場は東北各地にある、いざとなったらそこを頼ればよいと覚悟を決めた。国道7号で秋田を越え能代に到達してパンを買って空腹を補った。夜9時ころに無事大鰐の宿舎に到着。それから街に出て食事をしたのだが、何を食べたかは覚えていない。

この旅行に同行した同僚、私にとっては兄貴のような存在で何かと頼りにさせていただいていたが、退職後、これから人生を楽しむというときに、残念ながら急逝された。

結婚し子供をもうけてからもキャンプは継続した。子供が小さい頃は、近所の気の合う家族とあちこちに出かけた。私がキャンプ好きであることを知っている周りの人が、いろいろなキャンプ場を教えてくれた。また、遠出をしたときには近くにあるキャンプ場を調査した。そして、気に入ったキャンプ場を巡り歩き、東北各県にあるかなりのキャンプ場を巡った。

設備の整ったキャンプ場は料金が高いうえ、キャンプ本来の野趣味に欠け私の好みではない。林であったり、傾斜地であったりして、条件の悪い所に工夫をしてテントを張るのが楽しい。そこで何をするというわけではないが、テントを設営し火を燃やして飯ごうでご飯を炊き、まきを燃やし、星や月を眺めながらゆったり飲む。眠くなればテントの中で寝る。朝、明るくなれば目が覚める。すがすがしい空気を吸ってコーヒーを沸かす。その火でパンを焼いて食べる。そんなたわいもないことなのだが、そんな作業やそんな時間が好きである。

子供たちが巣立って夫婦二人となっても、年に4〜5回は続けた。温泉があれば最高で特にそういうところを好む。また、気に入れば2〜3泊くらいゆっくりするようになった。近年は、設営や撤収がやや億劫になり、テントを張らずにワゴン車で車中泊をすることが多くなった。道の駅を利用すればトイレがあり食事もできる、温泉が併設されているところもあるので快適この上ない。車中泊の人たちと交流して情報をもらう楽しみもあるが、野趣味には欠ける。

これからは休日がたっぷりあるので、ゆっくりとあちこち(全国)を回ろうと思うが、キャンプと車中泊、そして時々は温泉宿に泊まる、そんな組み合わせがよいのではないかと思っている。自転車を携行し、行った先々では自転車で町めぐりなどを楽しみ地元の人たちに接する。長期の旅となれば、食事をしっかりとしなければならない。これからの老後を生き抜くためにも、連合いを頼らずとも自分で食事を作れるようにすることが当面の課題である。

(記  森山 清治)

トピックス

例年より早い桜前線の到達でしたが、みやぎ会恒例の花見の会は、4月26日、作並のグリーングリーンで開催されました。

今回もほぼ固定メンバーの15人の参加で、静かに始まった宴席のカラオケは、最後は我も我もの大盛況でした。作並街道の桜のトンネルは年々花芽が少なくなっているとのことで心配です。

(記  花見会担当幹事 田尻)

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