平成24年秋号(vol.27)

みやぎ会 鳳鳴大滝
鳳鳴大滝
みやぎ会の活動
平成24年ボランティア活動

みやぎ会では、東北地方整備局が行っている「ボランティア・サポート・プログラム」の認定を受け、国道48号の清掃活動を行っています。

活動は4〜9月の第4土曜日で、今年の活動日は下記のとおりです。当日は宮城総合支所駐車場に集合し、午前6時半から約1時間程度の作業を行っています。

ボランティア風景 ボランティア風景

会員の広場

編集委員会からのお知らせ

編集委員会では、「会員の広場」というコーナーを作り今まで会員の皆様に掲載記事の原稿を依頼し、ホームページに掲載してきましたが、最近のホームページ内容から原稿不足を推察した会員の佐々木洋治様から、もっと会員の皆様に寄稿しやすい様に「古里コーナー」、「つぶやきコーナー」を作ったらいいのではないかと、提案がありました。編集委員会(持ち回り)で検討した結果、両コーナーを設けることにしました。

佐々木様貴重な提案ありがとう御座いました。

皆様の投稿を待っています。ドンドン投稿して下さい。

(編集委員長  及川 公一郎)

古里コーナー

ふるさと紹介と子供頃の遊びあれこれ

生まれ古里は何処ですかと尋ねられる度に、昭和の時代は「金色堂のある平泉をご存知ですか?その北隣りの前沢町です」と答えてもほとんどの方は県も場所も理解してもらえませんでした。平成となりました今ですと「岩手県前沢町です」と言いますと、「ああ前沢牛の・・」と理解していただけますが、場所までは解からないことでしょう。

前沢町古城こじょう(*1)が古里です。場所は岩手県の南(宮城県境北約20km)に位置し、遥か西方30kmには奥羽山脈があり、見えませんが南に須川岳(栗駒山・大日岳:1,627m)、北に焼石岳(1,548m)があり、その真ん中に位置する桑原岳(1,127m)が真西に望めます。東方6kmには、束稲山(たばしねやま:596m)があります。

太陽は、束稲山から昇り、桑原岳に沈みますから、胆沢川の扇状地である胆沢平野の中と言いいながら山に囲まれた所です。北上川が東2kmに流れ昭和30年代前半まで雨が多く降ると近くまで溢れた水で湖ができたものです。家は東北本線の東100mの田んぼの真ん中ですから列車が近づくとガタガタと戸が音を立て、子供の頃は怖い思いをしたものです。妻は一晩中眠れなかったそうです。今は新幹線は束稲山の下をトンネルで通り貨物列車が時折通過するだけですから静かになりました。

朝日の昇る束稲山は平泉町と一関市東山町と前沢町(区)に接する山ですが、平泉町の浄土庭園として名高い毛越寺もうつうじの遠い借景にとりいれられている山でもあります。年中行事の「曲水の宴」が催されているとき遥かに望むことができますし、ツツジの名所で夏には「大文字焼き」が行われる所でもあります。東日本大震災で陸前高田松原が被害を受け京都で燃やすことで騒動を起こしましたが、同じ県内の平泉ではどうしたでしょうか。秋田県大館市でも大文字焼きは行っています。快く引き受けてくれたことでしょうにと気にかかりました。

夏、北上川で泳ぎますが流れが速く危険なので、近くの岩堰川の落差工をプールに見立て、落ちる水のカーテンを利用したかくれんぼや飛び込みをして遊びました。お盆ではお墓に供える赤飯、饅頭、お菓子を載せる萱を編んだ敷物の萱を取りに沼に出かけ泳ぎました。褌一本どこでも泳いだものですが目の前を蛇が泳いでいることもありました。また、「どじょうど」にニラや螺を潰し入れ田んぼに仕掛けどじょうを取ったり、鰻や鮒などの魚取もしました。

冬は、田んぼの稲の切り株を切って水を張りコースを造り、竹スケート、下駄スケート、鉄(かね)スケートで遊ぶのです。竹と下駄は靴を脱ぎ足袋を履いてやります。鉄スケートは長靴に紐で括り付けてやりますし大きい道路(国道=街道=きゃど)では馬橇やバスの後ろに掴り遊ぶこともあります。バスの場合急停車をされますから脇によけるタイミングが悪いとバスに直撃し痛い思いをします。バックミラーに写らないで直撃を避けるには技術を要しますが、中学校の登下校では大いに利用したものです。また、細い竹で作った竹スキーもありました。竹を組む針金は薪ストーブの薪を束ねる物を利用する訳ですから針金の確保は競争率が高く貴重なものでした。もちろん竹1本で滑る遊びもありました。

その他の季節では、小学校の校庭での三角ベースの野球、バッタ(メンコ)、玉つき(ビー玉)、缶切り、釘刺しなどがありました。中学校では軟式野球の練習に明け暮れる毎日でした。二年生の時一年先輩で強いピッチャーが居たため郡優勝しました。村始まって以来の郡大会(*2)出場ですから隣接する水沢市で行われた試合には村総出の応援となりました。ピンチヒッター四球出塁だけの1回戦で終わりましたが貴重な思い出となりました。

夏は小学校で盆踊りがあり兄妹で出かけるのですが、男の子はなかなか踊りの輪に入れませんでした。秋には村のあちこちの神社でお祭りがあり部落外に遠征?しては喧嘩もどきをするだけでどんなお祭りだったか思い出せんません。でも誰も怪我をしない争いでもありました。

成人式、厄年、還暦などの折々に集まる久方ぶりの再会では、お互いの姿の変わりようはしょうがないとしても、子供の頃の遊びなどの思い出話は尽きないもので、飲めなくなった酒を肴に語り合うのは楽しいものがありますね。


(*1)

前沢町古城こじょうは、昭和30(1955)年に前沢町、古城こじょう村、白山村、生母村の1町3村が合併して「前沢町古城こじょう」となりましたが、それ以前は「胆沢いさわ古城こじょう村」でした。明治8年(1875)年に小山村と中畑村が合併して古城こじょう村となり、明治22(1889)年再統廃合が行われ関村が加わりましたが名前は変わらなかったようです。古城こじょうという名前の由来は胆沢城が構築される前に前線基地として「地形が高台をなし古城こじょうの面影がある」ことから命名されたそうです。「前沢町古城こじょう」も平成18年2月20日市町村合併により「奥州市前沢区古城こじょう」となりました。奥州市は、水沢市、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村の2市2町1村で構成されています。


(*2)

郡大会と言いますのは胆沢いさわ郡のことで、昭和36年当時は「前沢町、胆沢いさわ町、金ヶ崎町、衣川村」の3町1村でしたが、旧町村単位(前沢町、古城こじょう村、白山村、生母村)でそれぞれに中学校がありました。なお、中学校も昭和38(1963)年3月統合され「前沢中学校」となりました。

(みやぎ台  佐々木洋治)

つぶやきコーナー

「ばか(馬鹿)か」と「アホウ(阿呆)か」の違い

岩手県北上市には、「相去(あいさり)」と言う地名があります。言い伝えでは、「相まみえて去った」と言う意味で、南部藩と伊達藩の国境(くにざかい)となったこの場所に、こんな話が残っています。

国境を決めるため、決められた日の子の刻(今の午前零時)に藩の中心であるお城から、牛(うし)に乗って出発し相いまみえたところを藩の境にすることとなりました。南部藩では、決められた日の子の刻に盛岡にある「盛岡城(別名:不来方城・こずかたじょう)」から牛(うし)に乗り出かけました。伊達藩では、決められた日の子の刻に仙台にある「仙台城(通称:青葉城・あおばじょう)」から、午(うま)に乗って出かけ、途中で牛(うし)に乗り換え相まみえました。牛(うし)を午(うま)と読み違えたと言うのですが。では、何故、牛(うし)に乗り換えたのでしょうね。

その結果、南部藩と伊達藩の国境は盛岡市と仙台市の中間(一関市付近)ではなく、盛岡市から1/4、仙台市から3/4の地点「相去」となりました。当時、他藩の距離を測り確かめる術(すべ)が無かったこともあったでしょうから南部藩では疑う余地が無かったのでしょう。以来、南部藩では北上市と一関市の間の地域(北上市・金ヶ崎町・奥州市・平泉町・一関市)の人々を伊達藩の者と言い、伊達藩では何故か南部藩の者と言い、この地域の人々は両藩から差別を受けました。自立心の高い高野長英、後藤新平、齋藤実が育った遠因であるかもしれませんね。

こんな話をすると、宮城県北部(伊達藩)のある人は『なぬ(何)を、わげ(訳)のわがらね(解らない)ごどを、かだる(言う)』と言いますし、岩手県の先ほどの地域の人は『ばが(馬鹿)なごど、かだ(言)ってんじゃね〜』となります。

ところで、落語の世界での話ですが、江戸落語では、『え〜毎度、馬鹿馬鹿しいお話で・・・・』と切り出して、長屋の「八っあん」、「熊さん」、「ご隠居」や「与太郎」が登場し、面白可笑しく間抜けで馬鹿なことをした話で笑わせてくれます。一方、上方落語では、いろんな話の中に『おまえアホか』や『アホちゃうで〜』などと、テンポよく軽い調子で会話を進め笑わせてくれます。いづれも、ばか(馬鹿)とアホウ(阿呆)を使ってのお笑いと私には理解できますし、地域の生活文化の違いを示してくれてもいます。

先ほどの地域の人々の生活文化では、『馬鹿な息子』とか『馬鹿なやつ』とか『馬鹿かだ(言)ってんじゃね〜』とかを、日常的に謙遜したり、冷やかしたり、否定したりと言う意味(軽い気持ち)で使います。が、『アホウ(阿呆)な息子』とか『アホウ(阿呆)なやつ』とか『アホウ(阿呆)かだ(言)ってんじゃね〜』とは言いません。アホウ(阿呆)とは正真正銘?の馬鹿以上のことを指すからです。アホウ(阿呆)と言われるのを嫌いますし怒ります。

先日、『津波が来たのに馬鹿な友達が逃げないで死んでしまった』と言った大臣が居りましたが、先ほどの地域出身の方です。同じ地域の奥州市出身者として擁護する訳ではありませんが、立場や状況から言うべきでない言葉(馬鹿)ではありましたが、その根底には育った地域の生活文化から来たものとも言えなくもありません。でも決して被災者の方々を侮辱している訳ではありません。侮辱でしたら陸前高田市の薪の取り扱いや福島県内で制作した橋を架けさせないと言っていることの方が不愉快です。  他方で『馬鹿な友達』のことを国会で追及するなどの「言葉狩り」は感心しませんね。この頃のテレビに出る議員は「言葉狩り」で辞めさせたり、「揚げ足取り」や「悪口」が多く、政策での追求・提案しての法律の立案が見られませんね。「ねじれ国会」と言いますが、私には「ねじれ議員」ばかりとしか見えません。より内容が充実した高度な「政策狩り?」の「政策論議の国会」として生活の安定を図って欲しいものですね。特に東日本大震災の復興に向けて地元の方々は我慢し頑張っているのですから。

こんなことを書くと『馬鹿なやつだ』、『お前阿呆か』と言われそうですね。

(平成23年10月25日   佐々木洋治)

トピックス

東日本大震災から一年半余り、震災関連ニュース、被災地の写真等を見るたび慟哭を覚えずに居られない。小さなニュースからドキメンタリーなニュースの被災地状況がある。ある被災地の視察会に参加したおり、バスのガイドさんが「被災地を案内していると 何処が一番 酷い情況か と質問を受けますが、答えはみんな 酷い状況ですと答えます」と、まさに全てが悲惨な状況です、町長はじめ役場職員が行方不明で亡なった町、町民への防災放送で避難指示放送をしていて亡くなった役場職員など思い出しても落涙します。また、ニュースの中でお母さんを亡くした幼い子が「てんごくのおかあさんへ、○○もおばあちゃんのいうこときいてがんばるから てんごくでげんきでいてね」などの手紙書いた話など、みんなが、夢なら夢であって欲しいと、思っても覚めてみると現実あって如何なる励ましも時間が必要と思えます。「千年に一度と言われる災害 千年に一度の慟哭もあり涙を飲み込み前向きに一歩」です。

私ことになりますが、私にも小学4年生まで写真は一枚も無いです。何故かと申しますと戦後の昭和21年2月生まれで出生は満州国 現在の瀋陽市で敗戦のどさくさに日本に引き揚げなけれならない、 まさに人災の時であった。瀋陽市から鉄道で2週間 船で中国の錦洲市の近くのコールータオ港から舞鶴港へ2週間と生まれて6ヶ月の身で移動してきたもので、母は涙どころか生きた心地もしなかったのではなかったかと思われます。その後 現在の愛子に落ち着き幼少時代を過ごしました。

小学時代は私の家の近くには同じような境遇の引揚者家族が居り同級生に4人もいました。こんな中でも家にはアルバムがあり戦前に撮った祖父、祖母、両親、両親の結婚式の写真、兄の幼い 写真がいくらかありました。おそらくそれ以外は写真等撮る暇もなく逃避行であったと思われます私の最初の写真は小学4年生の遠足で石巻の日和山公園の中でのスナップ写真で特に何でもない写真 でした。2枚目は小学6年生の時 家の隣の若い人がカメラ買った事で試し取りのため、りんごの木下で凄く緊張して直立不動でまぶしい顔をした写真でした。その後は何かと写真はあります。 震災で写真を無くした皆さんはあった写真がなくなった悲しみ察するに余りあります。

(銘酒 一酔)

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