平成19年秋号(vol.7)
みやぎ会 鳳鳴大滝
鳳鳴大滝
みやぎ会の活動
平成19年ボランティア活動状況

みやぎ会では、東北地方整備局が行っている「ボランティア・サポート・プログラム」の認定を受け、国道48号の清掃活動を行っています。なお、この活動につきましては東北建設協会の「みちのく国づくり支援事業」に採択され、傷害保険の支援を頂いております。

ボランティア風景 ボランティア風景

旧宮城町-私の住んでる町「赤坂・高の原・みやぎ台」

【はじめに】

「赤坂・高の原・みやぎ台」地区は『みやぎ会』の4分の1強の会員の方が生活しています。最寄り駅へのアクセスは市営バス(赤坂[高の原]=>愛子駅、赤坂[高の原]=>陸前落合駅=>仙台駅、みやぎ台=>陸前落合駅=>仙台駅)となっており、今では道路も整備されましたが、以前はバスで仙台駅から「みやぎ台」(当時は芋沢といった方が理解された?)に行くのに途中陸前落合から道幅も狭くなり、車の擦れ違いも困難なため車掌さんが付いていたことなど懐かしく思い出されるとともに道路整備の有り難さを実感しています。

「赤坂・高の原・みやぎ台」地区はすべてが団地であることから、居住している会員の方の経歴は承知していませんが、おそらく「生まれも育ちもここ芋沢」という方はいないのでは、と推察するところです。(そのような方いらっしゃいましたら済みません)ということで、「私の住んでる町」を紹介をするにしても、地域の生い立ち等何も知らないわけでして、また教えを請う人を探す術もない、さて困った・・というとき「新しい杜の都づくり宮城地区協議会」発行、「平成風土記編集委員会」編集の『平成風土記』という本の存在を知り、これに飛びついたという次第です。とはいっても、編集委員会の方々の「手弁当を携え、血の滲むご労苦」の結晶である本誌を引用させていただくことに強い躊躇いを感じながらも恐る恐る「新しい杜の都づくり宮城地区協議会事務局」に問い合わせを入れ、最小限での引用をお願いしたものです。

【赤坂・高の原・みやぎ台 地区】

前置きが長くなりました。

前記『平成風土記』によれば芋沢9つの地域の内、上・中・下・原4つの行政区画を総称した「本沢地区」の周辺部に造成された団地で、規模・時期等は下表のとおりです。まだ若干の空きがあります。周りは緑があふれています。自然に囲まれて暮らしたい方、お待ちしています。

『平成風土記』から抜粋
『平成風土記』から抜粋

【芋沢の由来】

これもまた前記『平成風土記』からの抜粋です。

「芋沢の地名のいわれが宮城町誌に次のように記されている。宮城町愛子地区の北、広瀬川の渓谷を距てた対岸の山村を芋沢と呼んできた。また芋沢の地は仙台の西部近郊の里山地帯で、かつては薪炭を始め山菜の供給地として市民に親しまれた地域である。芋沢の「芋」は取りも直さず「やまいも」で、この山地一帯の地は黒川郡の七ツ森地方と共に、昔から山芋の産地として知られた所で、芋沢の地名はこのような事情から生まれたものと推定される。・・・・・・・」

とあり、さもあらん!と容易に推定される由来ではありますが、この地に住んで15年余になりますが、いまだ産地の恩恵を受けた体験はありませんのでリクエストされてもご期待には添えません。

【散策】

みやぎ台へ行く市営バス「みやぎ台・大國神社行」の終点には、境内地に隣接し「大國神社山野草公園」があります。「かたくり」「イワウチワ」の群生が見事です。入園無料で、安い・近い・体力必要なし・・

・・・・時期を失しましたが・・・・山野草に興味のない方でも一見に値すると思います。詳しくは「大國神社の山野草を守る会」のホームページが出ています。

【おわりに】

タイトルの「私の住んでる町」の紹介内容はほとんどなく、本の紹介や、他団体に断りもない押し売りのコマーシャル主体になってしまいました。住宅団地のこととて、紹介すべき材料も思いつきませんでした。書くべき内容思いつかないまま、「新しい杜の都づくり宮城地区協議会」発行、「平成風土記編集委員会」編集の『平成風土記』を抜粋引用させていただきました。「生まれも育ちもここ」でない方、自分の住んでいる町の生い立ち等詳しく知りたい方は本誌をご覧下さい。

本文を記述するに当たり、快く引用をお許しいただいた「平成風土記編集委員会」様、「新しい杜の都づくり宮城地区協議会事務局」様、「大國神社の山野草を守る会」様、有り難うございました。

写真提供:「大國神社の山野草を守る会」様

(記 小原 美佐男)

鳴合(なりあい)温泉

鳴合温泉は、愛子駅と白沢駅のほぼ中間地点、宮城広瀬総合運動場から広瀬川(鳴合橋)を渡ったところにあります。昔は、上の旅館と下の旅館(橋下)の二軒あり賑やかでした。

今は、下の旅館の看板等も無いことから廃業したと思われます。温泉の泉質は含重曹食塩泉、ナトリウム塩化物泉、効能は、神経痛、リウマチ、胃腸病に良いといわれています。

約30度の鉱泉で低温泉なので当然ながら循環加熱で湧かし湯です。当地は鳴合峡の下流端に位置し鳴合橋からの景観 また、峡谷の下の岩場からの景観も四季を問わず素晴らしいです。古くは伊達政宗公が好んで釣魚をされたと言う由緒ある釣り場もこの附近と言われております。温泉の由来は昭和27年(又は昭和17年)頃と言われておりますが、私が小学校の頃あったので昭和17年説が正しいと思われます。当時はラジウム鉱泉と看板に書かれており湧出していた鉱泉を飲むと甘くないサイダー(炭酸水)の味でした。川には貸しボートが20艘程を浮かべアベックが良くボートを漕いでいました。遠い思い出に、或る日、ガキ大将の私に情報が入りました。鳴合温泉に伴淳三郎と南田洋子が泊まっていると、ようし、サインを貰おうと、仲間5人と朝旅館の帰りを待ち受けていました対岸の旅館からの道は吊り橋を渡り崖っぷちの道 一本道である。「サインけさい」「サイン下さい」と定かではないが、あの有名な大俳優「伴淳三郎」大女優「南田洋子」に声をかけ、学校のノートか何かに、すらすらと達筆のサインを貰いました。あの貰うまでのワクワク感とは裏腹に貰った後は誰に見せるのでもなく何処かに行ってしまいました。

今 思えば2人は付き添いもなくお忍びでアバンチュールを楽しみに来ていたと思われますお邪魔さまでした。

参考資料:「宮城町史」

(記 高橋 成美)

仙山線シリーズ - 陸前落合駅

平成19年春号から始まりました「仙山線」シリーズ今回は陸前落合駅についてご紹介いたします。落合地区については平成19年夏号で紹介しております。こちらも併せて御覧ください。

<所在地>

仙台市青葉区落合二丁目に、東日本旅客鉄道の仙山線の駅舎として、陸前落合駅があります。

<陸前落合駅の歴史>

1929年開業当初は駅前に集落がなかったために、乗車客が少なかったが徐々に増えて、1960年の乗車人員は554名、以後、乗客数の増減がありましたが周辺に住宅地が造成された動向もあり、1983年には宮城県宮城広瀬高等学校が開校すると利用者が急増しました。1999年には利用者がさらに増えて2601名と、2000名の大台に達しました。

2005年3月28日には、南に駅前広場を備えた新駅舎が完成して、3193名が利用する大型駅となりました。

年表

<陸前落合駅の周辺>

落合駅周辺には、良好な住宅地が造成されて、仙台市へ約20分で通勤できる利便性の高い地域となっております。

2005年には、地域住民と多くの方々の強い要請による請願駅として、装いを新たに、南にはタクシー乗り場やバス乗り場を配置した駅に生まれ変わりました。

駅北口に降りますと、宮城県宮城広瀬高等学校、中小企業大学校仙台校と、子供の難病を治療する宮城県立こども病院、宮城県警察機動隊があり、住宅地は駅前に県営住宅等、周辺団地はみやぎ台、赤坂、ガーデンタウン高の原、住吉台があります。

駅南口方面には、大規模なグリンタウン栗生(一丁目から五丁目まで)約2,000戸団地が整備された後、栗生西部ハイタウン約1,600戸(商業地域400戸住居地域1,200戸)が造成され、さらに、東都タウン約100戸も売り出しています。

また、南前方には、四季折々に美しく彩を変える自慢の山、蕃山が迎えてくれます。

<陸前落合駅の構造>

従来の駅舎は、北側のみに改札口があり、駅舎の南側に住んでいる人達には大変に不便な駅でしたが、2005年3月28日完成の陸前落合駅は、南北の相互の乗客が利用しやすい橋上駅舎を完成させてくれました。

ホームは、2面2線を有する相対式ホームで、改札口は二階の部分に設置して南北の利用者の利便性に配慮した構造となっております。

「参考」

全国に落合駅が何カ所あるか調べてみたところ、当駅を含めて6つの落合駅がありました。

落合駅 (東京都) - 東京都新宿区にある東京地下鉄東西線の駅。
落合駅 (北海道) - 北海道空知郡南富良野町にあるJR北海道 根室本線の駅。
陸前落合駅 - 宮城県仙台市青葉区にあるJR東日本仙山線の駅。
会津落合駅 - 福島県南会津郡下郷町にある会津鉄道会津線養鱒公園駅の旧称。
美作落合駅 - 岡山県真庭市にあるJR西日本 姫新線の駅。
備後落合駅 - 広島県庄原市にあるJR西日本芸備線・木次線の駅。
(落合駅 (樺太庁)) - 樺太庁豊栄郡落合町にあった日本国有鉄道 樺太東線の駅。

(記 平野 多田夫・及川 公一郎)

トピックス

松原の大松林

 

私が物心のついた頃から見慣れている、大木の松林があります。仙山線の愛子駅と白沢駅の丁度中間地点の広瀬体育館の線路側に70本から80本の大木の松林であります。推定樹齢150年〜200年 胸高周囲2.5m 樹高20m〜30mの松林です。

元々は広瀬体育館その一帯が松林で在ったようでありますが戦争で飛行機の燃料の松根油を取るため伐採され、戦後苗畑および一部引揚者の畑として払い下げ、懲役人(囚人青服、赤服)が開墾に働いていました。また、松の切り株が転々としていて畑にする為、当時は珍しいブルドーザー(廃土板がウィンチ式)が根っ子起こしに来ていましたが、しょっちゅう故障ばかりしていた記憶があり、それを毎日見に行っていました。当時は青森営林局 仙台営林署 原山総合苗畑として松、杉、カラマツ等の苗木作りが盛んで春〜秋にかけては100人程の女性たちが働いており壮観でした。この苗畑で育った苗木が県内外の山林に植樹され今では立派な樹林と成っております。いま見られる50年〜70年の里山の植林地の大半はここから育った樹木と思われます。この松原の松林は今、種母林として保護されて、東北のインテリジェントコスモス構想の一翼を担う世界的有名なアドバンテスト研究所敷地内に大切にされています。

(記 高橋 成美)

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