平成21年冬号(vol.12) 

みやぎ会 鳳鳴大滝
鳳鳴大滝
年頭の挨拶

みやぎ会 副会長(花見担当) 高野 正治


みやぎ会の皆様、新年明けましておめでとう御座います。

平成21年は、昨年来の国際的に未曾有の金融危機により、私たちにどのような影響があるのか心配な年明けとなりました。

干支は「丑年」、どういう運勢の年なのかな−と、インターネット検索や図書館に通ってもみましたが納得できる答えを見つけることは出来ないまま‥頓挫‥。

結局自己流で、丑=牛「粘り強く誠実」かな?「‥生まれつき力つよく心しづかなり‥」かな?なんとなく妥協してしまいました。

でも、子供の頃よく食後直ぐ横になると「牛になるよ!」と注意されたことは、今のメタボに通じるのかな‥‥。

まあ−牛年のモットーは、何処かの総理の言っていた「たらたら飲んで食べて何もしない人‥‥」とだけは言われないような年にしよう!

ところで、私たちの一番の気がかりは昨年11月突然新聞掲載された『農政局 整備局「廃止」を』のことではないしょうか。

総理が地方分権推進委員長に「全国の7農政局8地方整備局を廃止する方向で進めてほしい」と指示し、分権委は12月8日地方自治体への権限委譲や事務見直しによって、将来国出先機関の職員約3万5千人削減するという第二次勧告を行いました。

これを受けて政府は今春3月までに出先機関の見直し計画案をまとめることになりました。

昨年春、民主党がある整備局に道路特定財源に関するに調査に入り、整備局廃止検討がニュースになったことがありましたが、ここにきて俄かに大きくクローズアップされてきました。統廃合については、現総理の在任如何にかかわらず今後、論議が続くことは必須です。

私たちみやぎ会の母体「建設省-->国土交通省」の存続についてみやぎ会で議論し、日頃のニュースを注視し、その時には組織のみんなと一緒になって阻止しようではありませんか。

新年を迎え毎年の事ながら「今年こそは!これだけは!‥‥」と思いながら今年も明けました。

私ことながら、唐の詩人・杜甫が「人生70年、古来希(まれ)なり」と詠んだという「古希」になりました。

これまでのダンスや下手なカラオケを卒業し、干支の牛にちなんで、ゆっくりとそしてのんびりと山歩きを楽しむ年にしようと考えてます。

みやぎ会の活動
平成20年ボランティア活動状況

みやぎ会では、東北地方整備局が行っている「ボランティア・サポート・プログラム」の認定を受け、国道48号の清掃活動を行っています。なお、この活動につきましては東北建設協会の「みちのく国づくり支援事業」に採択され、傷害保険の支援を頂いております。

ボランティア風景 ボランティア風景

旧宮城町-私の住んでる町「二軒在家」

「二軒在家」地元では、「にけんざき」と呼んでいる。旧上愛子村の仙台市寄りに位置し、仙山線愛子跨線橋付近から掘切川間の地区です。今では旧宮城町の中心部となっております。自治会では「二岩部落」で通じます。図書館の文献を見ると大昔から人が住んでいた地区で「仙台市文化財調査報告書」1994.3によると「愛子地区を含む広瀬川上・中流の段丘には縄文時代を中心として多くの遺跡が分布している」と記されております。発掘された当地内の遺跡は、北原街道遺跡「縄文前、中期」、二岩遺跡「縄文晩期」、車遺跡「古代」、雷神遺跡「古代」、の遺跡があります。遺跡が有ると言う事は大きな災害も無く 豊かに長期間 人々が住んでいた証とおもわれます。さて近年ですが昭和の初めに鉄道が開通して様変わりしたのでないかと思われます。昔の五つの村が合併して広瀬村、そして大沢村、大倉村と合わせて宮城町そして仙台市と成っております。この地区の小字を拾ってみると「字、街道、北原道上、北原、北内、中斉、雷神、前堀、舘の内、二岩、車、橋本、平治、岩元、大五郎」等々となっております。この小さな部落を14字で区切っていることは土地の活用がされていた証と思われます。二軒在家は呼んでの通り二軒しか家が無かったと思われます。今でも線路から山際は田で川側は畑ですが大倉ダムができ灌漑用水が確保され新田ができた所も有りますが、仙台電波工業専門学校、工場、住宅団地等となっております。

二軒在家に農業試験場、早川牧場、清水牧場が在ったことを知る人も少なくなったと思われます。

(記:高橋 成美)

仙山線シリーズ - 作並駅

「仙山線」シリーズ今回は「作並駅」についてご紹介いたします。

作並といえば「作並温泉」を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。「仙台の奥座敷」と呼ばれ、私も職場や友人との忘年会などで何回か利用させていただきました。その作並温泉にJRで行く場合の最寄りの駅です。

仙山線は、昭和初期に宮城県側を「仙山東線」、山形県側を「仙山西線」として建設が進められ、最後に県境の仙山トンネル(面白山トンネル)が完成した昭和12(1937)年11月10日に仙台市〜山形市間が全通し、同時に仙山線と改称されたという歴史があります。

作並駅は、昭和6(1931)年8月30日に仙山東線が愛子駅から作並駅まで延伸開業したときに「陸前白沢駅」「熊ヶ根駅」とともに誕生しました。当時、作並温泉付近に駅を誘致する運動があったようですが、地形その他の条件により作並温泉から約3キロ仙台寄りの現在地に建設されたということです。江戸時代、作並駅よりやや作並温泉側に宿場町があり村の中心でありましが、作並駅ができるとともに中心部が駅の方に移ってきたようです。

昭和40年ごろまでは一日400人を越える乗降客がありましたが、道路の整備や自動車の普及などに伴って鉄道の利用者が減少し、この20年位は200人代半ばの乗降客で推移しているようです。今年の春までは、当時の面影を残す古い木造駅舎が使われていましたが、宮城県の観光キャンペーンにあわせて、木の風合いを生かした暖かい雰囲気の駅舎に生まれ変わり、あわせてホームなども整備されています。

電車を降りホームから駅舎に向かうと、駅舎の入り口で大きな一対のこけしが出迎えてくれます。昭和30年代に最初のこけしが建立され、老朽化したため平成14年に2代目として建立されたのが現在のこけしだそうです。なぜこけしがあるか? 温泉で有名な作並でありますが、作並系といわれる伝統こけしの里でもあるのです。

駅舎に入ると仙台市宮城地区観光案内所があります。ここでは切符やお土産品の販売をしています。また、作並温泉の宿泊や周辺の観光案内を行っているほか、ガイドマップなどが置いてあり、電車を待つ間ゆっくりとくつろげる待合室もあります。

駅は国道48号から少し入ったところにあり、駅前は昔懐かしい田舎の駅という落ち着いた雰囲気を漂わせています。そんな静かな駅前広場ですが、電車の発着に合わせてホテルのマイクロバスが何台もきて、一挙ににぎやかな雰囲気になります。

さて、作並駅といえば「日本の交流電化発祥の地」で、わが国の鉄道電化史上も価値のある駅であるということです。仙山東線が作並駅まで開業したのは昭和6年ですから、当然のことながら最初は蒸気機関車でした。

昭和12年に宮城・山形県境(山寺〜作並間)の仙山トンネル(面白山トンネル)が完成して仙山線が全通したのですが、このトンネルは長さ5361メートルと長大で、蒸気機関車の煙害を避けるため山寺〜作並間は当初から電車が導入されました。鉄道に電気を利用する場合、電圧の降下が少ないなどの理由で交流の方が経済的に有利であることは知られてはいましたが、技術的な問題などから当時は「直流方式」が採用されていました。

昭和28年に国鉄交流電化調査委員会が発足し、交直切り替え試験に必要な直流電化区間を持っていることなどの理由から、仙台〜作並間が交流化試験地に指定されました。昭和29年から31年にかけて北仙台〜作並間でさまざまな実験が行われ交流電化方式の技術が確立されました。駅構内には、これを記念した石碑と交流電化の由来を記した看板が立っています。

さて、平成5年に約52万5千人の宿泊者数で賑わった作並温泉ですが、その後減少に転じ、平成19年には30万人を下回る状況となりました。そんな作並温泉に再び賑わいを取り戻そうと、平成20年10月19日、観光交流施設「作並湯の駅ラサンタ」がオープンしました。ミニ道の駅といった雰囲気の施設で、足湯を無料で利用できますし、食事・休憩・トイレなどもできますので、一度立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

また、作並地区は春の新緑、秋の紅葉が美しいところでもあります。普段は車で素通りするのですが、今回の取材でその紅葉のすばらしさを再発見、鳳鳴四十八滝付近などは特におすすめです。

(記:森山 清治)  

旧宮城町の神社

愛子諏訪神社

所在地は、仙台市青葉区上愛子字宮下40となっており、愛子駅から歩いて15分位ほどの所にあります。愛子駅を背にして、国道48号バイパスを錦ヶ丘方面に進み、右側測道を右折すれば正面に赤い鳥居が見えてきます。鳥居の右側には県重要文化財国分一宮諏訪神社の石碑があります。

赤い鳥居の先には石灯籠が並び、途中に諏訪神社本殿 附・棟札(宮城県指定有形文化財 昭38.7.2指定)の案内板があります。

また、先に進むと石の鳥居があります。左側には手水舎(ちょうずや)があり、先は急な石の階段が続く、最初の階段を登ると石仏等が祀られています。


次の石段は御長床(おながとこ)になっています。建物の天井部には地域の方々から奉納されたと思われる大きな提灯が吊されています。石段を登りきると本殿の前広場に、正面に本殿、右側には鐘楼、左側には札所があります。本殿には覆屋が架けられ保護されていて時代を感じさせます。

初詣やどんと祭、また、諏訪神社の祭には地元及び地域の方々が大勢参拝に見えにぎわう。本殿の脇を御殿山に登る登山道があり上り下りする方々が参拝する姿も見られます。

諏訪神社は、昭和38年7月2日に宮城県の県指定文化財(有形文化財)に指定されている。途中の案内板には次のような説明文が記載されています。

諏訪神社は、延歴年代(782〜806年)より山神社としてこの地に祀られていたものを、文治年間(1185年〜90)の奥州合戦の際に源頼朝が祈願して勝利を得たので、家臣の伊沢(留守)四郎家景に社殿を造営させたのに伴い、建御名方命を祀り改称したものといわれている。その後、康正3年(1457)、国分氏が再興した際に西山(御殿山)の頂より現在地へ移されたと伝えられており、この時の棟札(むねふだ)が、慶応元年(1865)に至るその後の11枚とともに保存されている。現在の社殿は元緑7年(1694)の着工、寛永2年(1705)の完工と推定されており、古くから代々柿葺入母屋造(こけらぶきいりもやづくり)の覆屋が架けられ、保護されている。本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)、柿葺で三間の向拝(ごうはい)と浜床(はまとこ)をつける。中宮・左宮・右宮に分かれ奥の厨子も3つある。社殿と長床だけで拝殿のない古い形式である。

と上記のように記載されています。

また、宮城県の指定文化財の資料によれば、「諏訪時代筒粥記」(つつがゆ)について、次のように記載されています。

諏訪神社では明治の中頃まで、正月に粥を煮てその年の豊凶行を占う「筒粥神事」が行われていた。この神事に関する記録が、安永3年(1774)から明治十八年まで残されており、「筒粥記」と呼ばれています。

この筒粥記は、神事の結果を記録したものであると同時に、毎年年末に占いの結果を反省しながら、その一年間の天候・災害・豊凶・物価・事件などの出来事を記録した村の貴重な歴史帳ともなっています。

安永風土記にもこの筒粥神事に書かれており、「一年おきに行い、三月十四日夜湯立をし十六日までの神事ある」とされています。

神社に伝わる記録によれば、正月十五日に行い、竹を二、三寸位(6〜9cm)に切っておき、その竹に、米・麦・豆・アワ・ヒエの五穀の名、雨・風・雪・晴の天候名,わせ、中,晩の品種名を書き、粥鍋の中に米、小豆を入れ、さらに前述の竹を束ねたたばを鍋の中にたてて炊いて行きます。

そして竹の中に入った小豆の数によって、その年の天候の良否、作柄の豊凶を占ったという。この神事は神職二人で行い、翌十六日に肝入、検断、年寄が集まってその結果を明らかにし、村内に知らせたといいます。

また、中世の宮城町一帯は、国分氏の支配下にあったことから、国分氏系の家臣の築いた城舘が数多く遺っている。またそうした豪族達は、それぞれの支配地に守護神としての氏神を奉り、同族の武運と住民の繁栄とを祈念しています。

愛子の諏訪神社や芋沢の宇那禰神社は、こうした国分氏ゆかりの神社と伝えられています。

参考資料 1.宮城県の指定文化財の資料
2.宮城町史

(記:八鍬 新治)

トピックス

親睦ゴルフ幹事より(報告)

みやぎ会ゴルフ大会は、11月8日(土)の芋煮会の盛会を願って同時開催を企画し、グレート仙台CCに於いて2年ぶりに行われました。

当日は、大きなゴルフコンペが予約されていたので、早朝(6時51分)のスタートとなりました。

参加者は、菅原会長、片桐眞次さん、佐々木洋治さん、仲山善博さんに私(菊地)とピンチヒッター(川端さん)の6人でした。

天候には余り恵まれた状況ではありませんでしたが、プレーの結果はパートナーに恵まれ、実力を発揮された菅原会長の圧勝となりました。

(記:菊地 憲男)

芋煮会幹事より(報告)

恒例のみやぎ会芋煮会が、去る平成20年11月8日(土)に、いつもの所で、会長以下18名の参加で行われました。若干少ない集まりでしたが和やかに懇親いたしました。

(担当幹事:八鍬 新治)

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